カゼ悪化です でもわりと元気^^

毎年12月には使い物にならないほどのカゼをひき続けるというのがここ数年のジンクスでしたが昨年末には辛くもそのジンクスを打破、しかしここへ来て典型的なカゼにやられてます。
でももちろん仕事は休まない。オーディションにも大雨の中行って来ました。
最近発見したのですが、私は長いこと精神的落ち込みはカゼの症状の一部だと思っていて、しかしそれは大きな誤解だったことがわかりました。心安らかにカゼをひくことも可能なんですね。
私が育った家庭は超神経質紙一重声優の父中心に回っていましたから、子供がカゼをひくとそれは「悪」という捕らえられ方をし、父は逆上子供は隔離母には疎まれるという状況だった上、当の父からでっかい扁桃腺を譲り受け、しょっちゅう高熱のカゼをひいては3兄弟が順番に寝込むということを繰り返していました。
そんな時は家中の空気はピリピリし、子供はびくびく、苦しい熱にうなされながら罪悪感にさいなまれたものです。ああなんという悲劇。
こういう気持ち、わかってくれます?きっとほんとに限られた人にしかわかってもらえないと思う。
それで私なんぞ30歳をとうに過ぎもはや40歳を目前にしても、カゼをひくと罪悪感やら寂しさやら悲しみに打ちひしがれるというおかしなトラウマを引きずってしまったのでした。でもどうやらそんな呪いもその力を失おうとしているようです。おお、神よ!
でもこの「安らかな気持ちでカゼをひける」という状況はまさに潜在意識が癒された証拠ともいえる状況でとてもめでたいことです。
はぁ~世間の人ってカゼの時こんなかんじなのかなぁ~なんて感心しちゃったりしてね。中にはカゼひくとお母さんが優しくてアイスクリームが食べられるから嬉しいなんて言ってる人いるもんね。
そういうのんきさというかのどかさと無縁な半生を送ってきたとは見えないこの朗らかな私の容貌によって時に他人からいらぬ詮索をされいらぬストレスを頂戴したりして。そういう人は知らないんだ、私の20代の顔を。ほんっとに老けて憂鬱な怨念とかがぴったりなおもたぁい顔してるんだから。どんな努力と忍耐の挙句、今の私を獲得したかわかるものかと思う。聖子ちゃんがよく整形しまくってるとか言われてるけど、そんな比じゃないんですから。もちろん私の顔は天然です。私は精神力とイマジネーションで顔を変えました。
ああ、やっぱりちょっとひがみっぽい心情になってるかもな。そうは言ってもやはり心と体はひとつですもんね。
もうすぐまた元気になります。
ところでそろそろヘアをいじりたいのですが、どんなんがいいかなぁ・・
長い前髪はすっかり定着しました。小学校5年生以来のでこ出し。
あとねぇ~新しいドレスがほしいです!!衣装がたくさん必要!
宇宙にリクエストちゅう。
あと、春には映画の話が決まりますように!!絶対。

久々のCMオーディション

が明日入りました。ちょっと扁桃腺が腫れて調子が良くないけど・・なんとかいいお顔で臨みたいです。
今日は雨だけど、ちょっと空気もしっとりして喉や肌に優しくしてくれてるみたい。
風邪撃退のため、なべ風おそばを作りました。まず昆布でだしをとり、長ネギとしいたけを刻んで入れます。めんつゆを少しと味噌と豆板醤としょうがをちょっとで味付けし卵を落として半熟に、そしてゆで麺投入。うどんやご飯でもうまいです。
昆布の水溶性繊維はカロリーの過剰摂取を抑えてくれるそうなので美容にもよいそうです。(あるあるより)
それにしても私のような仕事や生活には風邪ってほんとにコワイんですけど、ここ2年間週に3~4日歌う生活を続けてきてようやく、風邪でも扁桃腺腫れても熱があっても歌える自分を体験できたのはとても大きな支えになっています。
そういう強さが私にとってはとても必要だったんだと思う。
うん、何事も勉強だな。

神は証明を必要としない?

即ち神を試す必要はない。けれど私たち人間のほうはいつも神に試されているみたいな気がするもの・・・でも違うな。神を疑い試したいがために私たちは試されるような出来事に遭遇するのだ。遭遇したと感じるのだ。完全なる神の懐に抱かれている人にとってはそれは試練ですらないんだろうな。
私は今年の年頭にあたって浮かんだ抱負が「今年は天使さんんとお話したい」でした。私はかなり疑いぶか~い人間だけれども、天使の存在についてはすごーく納得がいっちゃってるので信じてるんです。ですからもういつだって、彼らに助けてもらったり願いをかなえてもらったり、彼らなしには私の生活は成り立たないくらいの家族のような存在なんです。
まるで一緒に生活してるかのように彼らのことが「わかる」んだけど、面と向かって彼らとお話したことがありません。彼らは慣れ親しんだ空気のような存在(まさに!)なので私が彼らのことを気に留めなければまるでいないかのようになりを潜めています。
ですから以前は困ったとき苦しいとき恐怖に曝された時にばかり彼らを頼っていましたが、彼らは文句も言わず私に付き合ってくれました。
そんな彼らとの付き合いが続くにつれ、私は彼らに心から感謝と親愛の情を抱くようになりました。今日一日、なにか心が満たされるような、他人との心のふれあいに出会えた時、人の掛け値ない優しさや深い気づきに出会えた時、私は心の声高らかに彼らに感謝を伝えます。なぜならそれは私が常日頃心底願い、そんな日々を送れることを切望し天にリクエストしていることだからです。
もちろんそのことを「天使抜きに」説明することもできます。人の思いやイマジネーションはそれを実現するエネルギーを持っています。心から抵抗なく同時に否定することなく願えばそれは実現します。ですが、人間には利己的な欲望というものが大いにある。利己的な欲望を無理にかなえてしまうとそこにはひずみが生まれます。利己的な欲望は物質の法則の中にあるので、どこかから奪ってこなくてはならなくなります。Aさんが豊かになるにはBさんが貧乏になるってことです。私はそういうのはあんまり嬉しくないので私の豊かさは無限の宇宙からいただきたいのです。
天使にお願いすると、その辺のフィルターをうまく使ってくれるように私は思います。あれもこれもとなってしまった時でも、本当にほしいものがとてもいいルートでやってくるように思います。同じ物での心のこもったやり方だったり、それを手に入れるために行ったことが自分の成長にとって役立ったり、自分の進化につながったりというように。
私は最近思うのですが、ニューエイジのせりふに「努力なしに」「がんばることなしに」できる、というのがあります。その意味をずっと考えたり試したりしてきました。私は今はこういうことじゃないかと思うのです。
それは「本当の自分を押さえつけたり殺してしまうことなしに、できる」ってことなんじゃないかしらって。
自分が本当になりたい自分になるための努力はすばらしく楽しいものです。
また、自分以外の人=他人の心を本当に思いやるということは深遠で一朝一夕にはできないことだと思います。けれどそういう自分でありたいと願うこころがありさえすればおのずとそれを学ぶに必要なできごとに出会うことができ、それを拒否することなく受け入れ乗り越えさえすればなりたい自分に「自然に」近づくことができます。
受け入れ乗り越えることは時に痛みや苦痛を伴うことが実際あるでしょう。でもそれは、本来の自分を押し殺し、無理やりに自分を曲げたり心を押しつぶしたりして「がんばる」「努力」とは違うはずです。魂は私たちの体の奥底で必ず喜んでいるはずです。
天使はこういうおはなしがきっとすきです。私たち人間が天使のことをささやき、心を輝かせときめかせているところに来ては祝福の「粉」をまきます。
その粉は地球をきらきらと輝かせます。私たちの笑顔と同じように。