「世界は内面の投影」を解く

ACIM(ア・コース・イン・ミラクルズ)の公式本である『奇跡講座』を愛読しています。テキスト編、ワークブック編、マニュアル編とあり、膨大な容量ですが、どのページを開いても同じことが幾多の側面から言葉にされているように私には読めます。

同じことというのは『真理』のことであると思います。真理について書かれているので、どの側面から切り込んでも結局同じところに着いてしまうのです。

しかし幾多もの側面からというのがミソです。なぜなら私たちはたったひとつの真実を本当にわかるために、幾多もの側面という壁を乗り越えなければならないからです。

さっきひとつの壁を乗り越えたと思ったのに今はもう別の壁に視界を阻まれ、本当のことが見えなくなっています。そうしたらまたその壁を乗り越える。乗り越えるというのは、気づくということです。今とらわれているな、或いは今見ている現実に見えるものはほんものではないな、と。

奇跡講座のどれかをなんとなく手に取って、てきとうにページをめくって目についたところを読む、ということをよくやっています。最近もまた、その一つの壁にどんと当たって目が覚めた気がしました。

そこにはこう書かれていました。

「外側に神がみがいる理由はひとつしかない。それは、内側に神がいるからである。外側の世界はすべて内側の世界の反映であるから。」

(だいぶ意訳になっていますが、同じページをみつけるのはかなり面倒なことなのでご勘弁ください。)追記:ワークブック編レッスン30でした。まさにこれをまるごと転載したいほどの1ページです。

「外側の世界は内側の世界の投影だ」ということも「神は内側に在る」ということも、既に慣れ親しんだ概念である方も多いでしょう。なのになんとなく、神さまは立派な建物や歴史上のステージや高貴な場所には確固として存在しても、自分の中のはまだまだ小さい、弱い、みたいなおかしな感覚を持っていたりしませんか。

外側の神のほうがなんとなくほんものっぽくて偉大っぽくて魅力的なイメージかもしれません。でもほんとうはどこまでもどこまでも、すべては内側に在るのです。神までも。宇宙までも。そして内側にあるもの以上のものはないのです。

例え人類のルーツが宇宙人だったり宇宙から来た存在であったり、またあなたの前世の誰かが宇宙人であったとしても、それが神だというわけではありません。それはあくまで歴史のことです。歴史のすべてに神は在ります。それはあなたの内側に神が在るから。

私はルーツとか歴史を知るのも好きなのですが、神を知るというのはそういう知的な欲求を満たすこととはまったく違うものだなといつも思います。地球では神を語るものがたりとして創世や統治が言われます。地上でのそういった権威や権力が神になぞらえられるのはきっと、人間にそのような理解力しかなかったからなのではないかと想像します。神はその王国を地上にではなく、もっと高次元の場に築きました。私たちの意識という場に。

死者の声を聴き続けて

前世療法のセラピストをしていての恩恵は自分にとって計り知れない。それは言ってみれば死者との対話だ。死者と対話することにどんな意味があるだろう。

死者は人生を終えているがゆえの達観した視野を持つ。それは時には後悔、悔恨などの心情であるかもしれない。近しい人の人生を賭した悔恨の情に、私たちは耳を傾ける価値がある。

私たち人間が祖先や先人を崇拝するのもきっと、そのあたりにわけがあるのだろう。常に生き死にをかけた淵に立たされている私たちの肉体意識は時として、いやほとんどの場合において、全体というものを見失っている。

私が、ある次元において過去世というものは確実にあると実感するのも、本当のところこの生の使者の声に深い真実味を感じるからだ。

数多くの生の死者の声を拝聴するなかでも忘れられず繰り返し私をなぞる声がある。それは、第二次世界大戦のおそらくアウシュビッツ収容所でガス室に送られた少女の声だ。彼女はガス室の中で死にゆきながら「死ぬのはこわくない。この中(同じガス室)によく知っている人がいないのが救いだ。その人たちが苦しむのを見るのは辛い」と言った。自分といういのちが終わろうとするときに切実に思うのはそういうことなのかと、揺さぶられる。それは本当に死にゆく人にしか言えないセリフのように感じられる。

例えばそんな声は私に、生きるとはどういうことか、どのように生きるべきなのかということを切々と伝えてくる。こんなにも多くの死者の声を私はどうしても無駄にしたくないと心から思う。

死者の声は決して神の声ではない。それはある一方から見た真実の側面を物語っている。同じように私たちも、この世で肉体とともに生きている限り、物事のある側面しか実際に触ることはできない。

私たちがものごとに行き詰るのはいつも、一方の側面しかわからなくなりそれがすべてのように錯覚してしまったときだ。私たちは常に一方しか体験できない。だからこそ、ものごとが本当に行き詰るということはあり得ないのだと私は確信している。

ガス室の少女は「次は戦争のない国に生まれようと思って、この国に来た」と言った。彼女からみたらこの日本は天国に等しい世界かもしれない。

それでも私たちは常にあらゆる側面を学ぼうとして、苦しみと喜びを交互に、あるいは交互だということすら忘れるほどどちらかに浸りながら生きる。

あまりにどっちも見てしまうと、それはどっちも本当じゃないんだと悟るようになるんだろう。よく体験することが真実だ、というようなことをいう人もいるが、体験するだけではなにもわからない。

どっちかではない、どっちでもない、それが魂の世界だ。

賢明な死者は必ず自己を省みる。どんなすばらしい行為をしてもあるいは全力で闘っても、おそらく真理を悟らない限り、神をみつけない限り私たちは充分に生きることはできない。なぜなら私たちは魂であり、魂はそのおおもとの神だけを探し求めているからだ。やがてそこに還ることが道だからだ。

ほしいものを全部手に入れるべく生きれば後悔しないと思っている人もこの世には多いかもしれない。なすべきことを全うしたら後悔がないと思っている人も多いだろう。でもそれは「ない」ということを死者は切々と語る。行為では内側を満たすことができない。それを一体どうやって伝えよう。

いや、多分、私が思い知ればいいだけなんだろう。私はそれを共有できることをただただ喜んで生きればいい。私に与えられたそれが世界なのだ。

究極のTHE REIKI

このたびまたおひとり、ライタリアンレイキのアチューメントの全工程を完了されました。ライタリアンレイキのアチューメントは、臼井レイキマスターティーチャーの、その先からスタートする、いわゆる発展形なんて言われるレイキヒーリングシステムの、いわば究極とされていて私も同感です。

レイキを学び日常にどんどん取り入れるに従い、もっともっと知りたくなるし、知らないことが明確になっていく意識とエネルギー、そして人間という存在について。

私自身がレイキに取り組むうちに、レイキって本当はこうなんじゃないかしら、誰かも同じことに気づいたり思ったりしていないかしら、と探して見つかったのがライタリアンでした。そしてその扉を開けたら。やっぱりそうだったか~!(笑)このやっぱりそうだったか~!という発見は本当に楽しいものです。古くから奥底では本当は知っていたことに、気づき、導かれ、出会う。真理の探究ってまさにそういうこと。

ライタリアンレイキを深く学ぶと、そこにすべての答えがあるとわかる。それは一度に全部わかるものではなくて、体験とともに、時間とともに、出会っていくものであり、そのように導く導き手こそがレイキだ。

レイキは、その根源や本質がわからなくても実際に使って役立てることはできる。伝授されたその日から使えるという優れものだ。電気というものがどんなシステムか、なぜそのように働くのか理解できなくても電化製品を使いこなすことはできるのと似ている。その恩恵に日々預かるほどに、その贈り物の贈り主についてもっと知りたくなる。(それって愛だと私は思う。)

私たち人間という存在も同じだ。人間とはなにか、命とは、人生とは、その存在とはなにかを知らなくても、お母さんから面倒をみてもらい、見様見真似で生き方を覚え、その延長に生きることはできる。しかし自分とは本当はどんな存在なのか、ということを問い直す機会に出会い、それを知り、それを生きる人は少ない。

私たちの肉体意識は、デフォルトでお母さん仕様にセッティングされている。お母さん仕様に不具合を感じたところから多くの人は自分への問い直しが始まる。最初は自分の出来損なったところの修復から始まるかもしれない。その工程は復讐にも似てとても辛い。

出来損なった(と感じている)自分とお母さんが深く関係している、ということすらちょっと以前にはわかっていなかった。今はそれを突き止めて、そこで苦しんでいる人も多い。でも真実は、それはただ、ひとりの人間が当然ながら万能ではないということと、お母さん仕様を卒業することが人生の本当のスタートだと言ってもいいほどシンプルだということ。

すべては神という生命の源からの贈り物だとはわかっていても、あるいは自分は本当はスピリットなのだ、とは受け入れていても、実際にスピリットとしてこの世を生きるってどんなことなのか、ということはほとんど誰も知らない。

それでいい。本当は重々わかっている真実を、実際に本当に生きてみたらどうなるか、というゲームに私たちは参加している。
暗闇を手探りで突き進むもいいけれど、そこに明かりがあり、地図があり、そして真理というお手本と、愛という完全無欠な秩序と、神というこの上ない無限の力とともにこの世を体験することもできる。

私はようやく最近になって聖霊とは何かがわかった気がする。父と子と聖霊との御名において、の聖霊。RUACHの聖霊。レイキは聖霊のちからそのもののように思う。と、そこまで考えてはっと気づいた。霊気だもの、当たり前か。その名前の通りだったのか。

さて、以下は、臼井霊気の伝授をお受けいただいている方からいただいたご質問へのおこたえです。その方へ伝えたい、という強い想いが言葉にさせてくださいました。いつもながら、ご質問いただいたことにとても感謝しています。手直しを加えてここに記させてください。


レイキヒーリングの世界ではレイキの根源は「宇宙の生命エネルギー」と説明されています。それゆえに、多くの人が空から降り注ぐイメージを持たれます。臼井レイキのマニュアルにもそのように連想させるような記述があります。例えばレイキシャワーのような。

しかし宇宙の根源的な生命エネルギーとはなんでしょうか。それは空や宇宙空間にあるものでしょうか。あるいは自然界の大気、鉱石、植物や陽光のなかでしょうか。それでしたら私たち人間という自然動物の生体の中にもそれはあります。しかしレイキは何かしらの物体のエネルギーを借りたり移動させるというものではありません。それは無限の、源から来るものです。それゆえに私たちはそのエネルギーを無限に使っても何かがすり減ったり目減りすることがありません。むしろ、使うことによって広がり、根付くのです。

根源的な宇宙エネルギーというのは、実は意識の中心にあります。私たちの意識は顕在意識、潜在意識、超意識、宇宙意識、というふうに大きく4段階に分けて考えられています。この最後の宇宙意識というのは、無限で、完全で、すべてで、一つである、という性質です。私はこれを通常「内なる神」と呼んでいます。

すべての物象の背後、あるいはその中心には、この内なる神が横たわっています。レイキで言う宇宙の生命エネルギーというのはこの宇宙意識ことであると私は理解しました。

臼井 甕男さんがブッダとキリストを探求し瞑想して授かったレイキエネルギーは、根源なる神からのちからを人間が使って自己意識を浄化し、あらゆる生命を癒し、活性化し、調和させ、そして「悟りへの道標」として(レイキサードのマニュアルに明言されています)、その歩みの杖として携えることができるように人間界に具現化し降ろされた技法です。

レイキは私たちのすべてがそもそも持っている力、根源なる神の力とつながる方法です。

霊気、という字は当て字でもなんでもなかったのです。霊(=根源なる意識・宇宙意識・スピリット)の気、つまり神の呼吸、息吹がレイキです。

これを聖霊と表してもいいかもしれません。聖霊とは、根源なる神=真理と、この次元(幻想、無常、3次元)をつなぐもの、と言われます。つまり私たちの祈りとはどんな時もそこに届けられるべきものなのです。

どうして遠隔ヒーリング・遠隔アチューメントというものが可能なのでしょうか。遠い宇宙や空からエネルギーを呼び込み、更に今度は遠く離れている誰かのところまでそれを送る、などと言うイメージはなんと遠回りで頼りないものでしょう。多くの人が自分の力に疑問を抱いています。本当にそんなパワーが自分にあるのだろうか、と。

そうではなかったのです。私たちは内なる神にヒーリングを依頼すればいいのです。内なる神はひとつですから、私が内なる神に依頼すれば、○○さんの内なる神として行ってくれます。私たちは内なる神によってつながっています。地球の裏側だろうが宇宙の果てであろうが、神はひとつですから、神が無限であるがゆえに、私たちは完全に時空を超えてそれを伝えることが可能なのです。

ですから私はレイキをするときにはハートの内側にそれを伝え、自己ヒーリングの際にはハートからのバイブレーションをただ全身に受けるようにしています。時には地球に感謝し、マスターや天使やすべての聖なる存在に感謝しますが、しかし依頼する対象はひとつなるものです。

レイキのパイプ、とよく表現されますが、レイキは神への直通電話だと思っています。いつもいつも電話していると、いつの間にか番号を覚えてしまう。そのうちボタンを押すより早くつながっている。そのうち、あれ?電話本当に必要?思うだけでよくない?だって相手は神だから、というふうになっていきます。

レイキの目指すところはそういうところです。いつもどんなときにもどんな状況でも、即、神につながっている、という信頼と安心が完全に自己の内側に根付くまで、繰り返すことです。

この仕組みをお伝えすると、多くの方は安堵されます。ああ、それならできそう、とおっしゃる方がほとんどです。みなさんどこか、無理をなさっているんだと思います。人間は自分が自然の生き物だということも、神に最も愛されているということも忘れています。

私たちは、神のように無限ではないですが、しかし神のように与えることができる生き物です。そのためにレイキがあります。まずはその愛をあふれんばかりに受け取り、その無限の泉の水をあなたが飲みなさい、そして、それから周囲の人に与えなさい、と。神は私たちがレイキを「再発見」できるように私たちに喚起しました。

感謝とともに
AZU拝

豊かさは、愛することから

理想や意志を持つ人ほど、自分のコントロールができるようにならない限り葛藤が大きいものだと思います。思慮ある多くの人が自分を簡単に愛せないのはそこにあるような気がします。

トラウマがあるとかないとか、インナーチャイルドの状態に関わらず。(インナーチャイルドは自分史のすべてですから、見直しをするまでの自分の多くはそこから成り立っているのはもちろんのことですが。)

理想と意志に感情とからだがついてこないイライラ、これは放っておけば一生つきまとう人間のジレンマでしょう。放っておいたなら、その人にどんなに崇高な思いがあっても、心の中が平安に満たされることはないでしょう。むしろ自己のなかの分裂は時とともに深まっていくことと思います。

崇高な意思とうらはらに心の中ではいつも不平不満が渦巻いている。いつも他者かもしくは自分を攻撃している。もしくは諦めや我慢とともに固まり閉ざされている。

この状態をチャクラで見ると、スピリチュアルに目覚めている方には往々にしてあることですが、下3つのチャクラが閉じているとか弱い、というふうに出ていることが多いです。「地に足がついていないんです」などと自覚なさっている方も多いけれど、言葉のイメージのように単にふわふわしているということだけではなく、

例えば自分の在り方を常に周りとの兼ね合いで測ってしまうというようなことや、どこにいても求められる以上にがんばってしまう、さらに求められないと居心地が悪い、つまり役割がはっきりしないと楽に居ることができない、人のことは許せるけど自分にはもっともっともっと多くを求めてしまうとか、だけど周囲からの理解は欲しい、賛美とは言わずとも少なからず認めてもらいたい、或いは許可がほしい・・・など様々な意識として現れます。まさに葛藤です。

これは30代のころの考察ですが、年を取って寛容になっていく人と偏狭になっていく人がいることに気づきました。更に掘り下げれば寛容に見えて諦めが強く閉ざしている人もいるかもしれません。本当の意味での寛容は、赦せることでしか生まれないのでしょう。

霊的成長、などというと仰々しいですが、私は単純にどっちに向かうかの二択だな、とその頃思いました。私は思春期から体調も精神状態も不調で不安定だったため、20代後半から自分を立て直し始めましたが、「次の山場は更年期だ。そこは自分の取り扱いマスターになって苦しまずに乗り切るぞ」と心に誓ったものです。そして自分との付き合いに対して本当に様々な実験を施してきました。

人間の肉体的な健康や寿命はおそらくホルモンに牛耳られていると私は今では勝手に確信しております。例えば女性ホルモンが一生の間に分泌される量って、ティースプーン1杯だと昔何かで読んで驚愕しました。総量でそれだけのものが、心身にどれだけの影響を持つか、というより女性のからだの一生をコントロールするのです。すごいと思いました。

この微細な采配は、心の在り方、自分の扱い方、つまり自分への心のエネルギーの向け方でまったく違うものになると、私は仮設を立て検証し、ほとんど納得に至っております。

また、自分が自分の思うようにならない、という体験は、子供の頃の些細にみえる兆候(例えば、宿題を後回しにしてしまう、毎日こつこつ予習復習ができない、忘れ物をしてしまう、テストでケアレスミスを必ずする、マラソン大会などが非常にプレッシャーである、ノートを最後まで使いきれない、-途中で飽きてしまって-)から始まり、思春期の体重のコントロール不能からはあっという間に不眠、便秘、摂食障害、鬱へとつながりました。

これらは自分への不信感、無価値観、自分自身との関係の溝の最初の兆候だったように思います。この後大人になるとこれらが仕事や自己表現、ひいては経済面、人間関係、恋愛、家族関係など生活と人生そのものへと大きく波紋を広げるようになりました。

これらは成長の過程で誰もが超えるハードルです。人によっては躓きもなく何気なく乗り越えていけるテーマかもしれません。ですが私の場合、どれもが気になり神経質さが増し、傷つきがひどくなり、愛を見失い、人生そのものへの絶望へとつながりました。

そこから回復する際、インナーチャイルドの状態が、すべての人生に非常に重大に関わっていることもわかりました。

世界を愛すること、他者を慈しむこと、自分を愛することは同じです。どこから始めてもいいのかもしれません。しかし、どれか一つだけ、あるいはどれかができないでいる間は、本当はどれもできていないのと同じなのだろうと私は思います。どれかが気になったときには全体を見直してみることが、人生を豊かに生きる一番の近道と言えるでしょう。

欠けていることへの気づきは、より全体性へと統合されるチャンスを与えられていること。それが魂の導きであり、自身の真実の道なのだと感じています。豊かさへの道は、得ることではなく、不全性をみつけ、思い込みを手放すことによって必ず開けます。どんなときでも。

超人のすがた

「私たちの真の強さは自己の明け渡しからくる」
これは敬愛するスリ・ダヤ・マタさんの言葉。

そう聞くと、誰にでも何にでも従順に言いなりなイメージを持つ方もいるかもしれませんが、
もちろんそうではありません。
明け渡す相手は神しかありません。

「夜も昼も、何をしていても、心の背後で常に神のことを考えているようになるまで、あなたの心のすべて、思いのすべて、魂のすべてで、神を深く愛してください。」

究極、瞑想を何のためにするかと言えば、
そうなるため、なのだと思っています。
自己を明け渡して、内側を神で満たしておく。
そして、それを、生きる。ただそれだけ。

瞑想の習慣のない方からみるとおそらく気持ち悪い話ですよね?
私はもちろんそう志して日夜励んでいますが、
でも暮らしはいたって普通の感覚です。

例えば些細なことが心にひっかかって落ち着かなくなること、
沖縄で教えていただいた言い方だと「さーさーする」ことなんて、
いくらでもあります。

さて、そのさーさーを追っかけて分析をしたところで、それはほとんど解決しません。
なぜだろう、どうしたらいいんだろう、なにがいけないんだろう、
あれかな、これだろうか、いやそんなはずはない。

これをやっているうちにだいたい行き着くのは
「ああもう、こんな自分でいやだな」「自分ってやっぱりだめなんだな」
「ああ世の中ってめんどくさい」などという境地です。

ヨガナンダ先生はこうおっしゃいます。
「自分の考えを見張っていなさい。どんなに多くの時間を、無駄な考えや、愚かな考え、否定的な考えに費やしているかを理解しなさい。そしてどのくらいの時間、自分が神のことを思っているのか見守りなさい。」

さーさーする自分について真剣に考えていたとしても、
それは自分と向き合うということとは違う、と
気づいている人はどれくらいいるでしょうか。
自分のことや他人のことを一生懸命思っていたとしても、
思っている自分が神から離れてしまっている、ということこそが、
気づくべきことだということなんですね。

またそこでいろんなわながあります。
じゃあ悩まないで明るくふるまっていることがいいことなんだ、
ポジティブに考えればいいんだ、という方向に向かうこともあります。

いえいえ、それもやはり、意識は外に向かっていることになります。
内面は放っておいて、外側への対処に向かっているんです。

神は内面にしかいません。この世においては。ある次元においてはすべてにいらっしゃいますが。
ですから私たちが神を思うときは内面に向かい合うしかありません。
神を体験するのも実感するのも、私たちの内側を通してしかできません。

自己と向き合う、というのは究極神と向き合うことに他なりません。
自己の本質が神だからです。

はっ、そうだった、と、さーさーから離れて神に戻ってきただけで、
さーさーは幻想となって去ります。

平安に戻れば、その原因やきっかけはもう存在しません。存在する意味がありません。
それより、戻ってきた喜びと感謝があります。
その中からさっきまでの自分を観察し、学ぶこともできます。
平安に戻ってきてこそ、初めて学びができます。

こんな、天国と幻想の間を、お皿を洗ったり床を拭いたりしながら
行ったり来たりしております。
夫と神について話し合う時、セッションの時、自己ヒーリングと瞑想の時が、
一番神を実感できる時間です。
幸いなことに、ここに時間を費やせる生活をしていることが何よりしあわせに思います。
それを選ぶことを選べた自分になれたことが、喜びです。

美しく咲く

昨日のおやすみは久しぶりに庭仕事が少しできました。
ブーゲンビリアと玄関脇のローズマリーを剪定し、裏庭の石垣のくぼみに昨年植えたキダチアロエを収穫しました。

こういう作業って、自分の心にどれくらいゆとりがあるか測れます。
スペースが足りていない時は意欲がないばかりではなく、ちらかっていても目に入らない、スルーされることが多いです。
自分のエリアを小さくして、自己を温存しているんでしょうね。

今年に入って、まだ間もないですが、普段手つかずの「あとちょっと」のところにおそうじ意欲が出てきています。
明らかに昨年とは違う。私だけのバイオリズムなのか、みなさんはいかがでしょう^^

ローズマリーはパンやお肉料理にもべらぼうに合うのですが、今回はお風呂場と寝室に活けました。
アロマとしては緩めるよりはシャキッとする効果が強いのですが、この香りのすばらしさには代えられません。
夫もとても喜ぶので我が家には合っています。

先代のマリーさんは、公園で一枝手折らせていただいたものを挿し木して、道にはみ出すほど育ったというのに、はみ出ちゃうな、どうしよう、と思っている間に一気に枯れてしまいました。調べるとマリーさんには突然天寿を全うされる傾向があるそうです。当代はメイクマンで小さな苗を購入して植えましたが、順調です。

キダチアロエはなんとなく、初挑戦ですが、お茶にしてみようかと思い立ち、スライスして干しました。お日様が今日は陰っていますが晴れたらい1日でできてしまいそうです。棘を取るイメージがあったのですがシュウ酸カルシウムが多いため、と後で知りました。取ったり取らなかったり、で、ついでに葉肉をちょっとつまみ食いしながら、いい加減な仕事です。

植物って、人に観てもらうと圧倒的に元気に、美しく育つと私は常々思っています。東京へ行くと、街路樹やお庭の木がものすごくきれいだな、と感じます。20代のころ善福寺川公園のそばに住んでいてなにより川沿いのおさんぽが好きでした。ここの公園は本当に美しく、その頃です、そう思い始めたのは。東京の公園はいつでも人がいて、求められている感じがするところが多く、その思いを受けて樹も応えるのでしょう。

沖縄では、ここすごいな、と感じるところにはだいたい拝所があります。神との交流の場なんですね。そういう場所の植物も人信仰に応えて荘厳となり神聖な場を創り護ってくれていると感じます。

人間の視線にも想いにも、それだけのちからがあるのだと思います。いいほうへ使いたいものですね。
そのためには何しろ、自分育てと内面のおそうじに尽きます。注いだ分、必ず良い花になります。

初心表明

みなさま 新年おめでとうございます。

昨年もたくさんの方とお会いすることができ、また勉強会という新しい切り口で交流させていただけて大切な一年となりました。
おひとりおひとりに感謝の気持ちです。本当にありがとうございました。

今年もまた、ひと時ひと時を愛おしく感じられるよう、精いっぱいに歩んでいきたいと思います。
関わってくださるすべての方、どうぞよろしくお願いいたします。

ブログを書き始めてなんと15年にもなろうとしています。
何の気負いもなく、ただ言葉を紡ぎたい、言葉で伝えたいという思いだけで始めたものですが、こうして今も書けることが嬉しいです。
最初は自己治癒的な意味合いで、書くことによって自分を保っていたという感じです。
今はここまで自分を地に養っていただけたご恩返しを宇宙にできるといいなという気持ちも大きいです。
もちろんメッセージによって私を知っていただき、道のご提案ができるのは喜びです。

書けること、というのは、受け取ってくれる人がいる、というのと同義です。
どんな仕事でもそうですが、行いということは受け手あって存在できることなのだと思います。
この世に影響がない行いは存在しないのだということをしみじみ思います。

大切に受け取り、そしてしるしたいものだと思います。

初心に返って、レイキについて少し書きたいと思います。繰り返しになるかもしれませんが、繰り返す必要を感じています。

私自身、レイキの伝授を受け入て以来、レイキを忘れた日はありません。仕事として世に出してからも、自分自身から切り離された商品のように感じたことはありません。よくクライアントさんから「レイキなしの生活なんてもう考えられない!」と、お言葉をいただきますが、まったくもって同感です。そんな仲間が増えることこそ喜びです。

遠隔アチューメントの場合、ご質問をあまりされない方もいらして、その場合こちらからご指示することはないのですが、だいぶ後になってからきっかけがありお話するにつけ、ああもう少し補足できたらな、と思うことも多々あります。また、公式のマニュアル以外に、独自のマニュアルもぜひ作ってくださいというご要望もいただきました。取り組んでいきたいと考えています。

レイキにはおおもとのオリジナルのマニュアルがあります。基本的にはそれさえ熟読し理解すればレイキを大いに活用できます。レイキと名のつくものに限らず、ヒーリング哲学の楚は臼井レイキにあると思います。臼井レイキの精神に沿って深く洞察された著書は「癒しの現代霊気法」に尽きると私は感じています。アチューメント前に読まれてもあまりピンとこないかもしれませんが、使い始めてから読んでみると、あらゆる疑問に答えてくれるのではと思います。クライアントさんがくださる数々の質問に向きあっての実感です。

それ以外にレイキの本でお勧めはありますか、とご質問いただきますが、正直書店にびっくりするほど並ぶレイキやヒーリング関係の本にあまり関心するためしはありません。これに効く、こんなふうに使う、というのは本質ではなくて取ってつけたものが多い気がします。原理と質がわかると使い方は自ずとわかってきます。それには、意識やエネルギー、また心の働きや瞑想についての学びがむしろ役に立ちます。

つまるところレイキを理解するということは、この宇宙の原理や生命、意識のエネルギーのシステム、自然界の理というものに踏み込まざるを得ないからです。しかしながら電気の仕組みを即座に明快に説明できるという人は少数でしょうが、多数の人に利用はできます。この世のおおかたのシステムとはそんなものです。

レイキは、動かすちから、または動きそのものというちからで、そのなかでもより微細な振動数を持つもの、というのでしょうか。でもその前に、私たちやこの宇宙に存在しているもののすべてが実は振動であり振動数を持つものだと認識しないと、この説明は不十分です。レイキはそもそも止まって固まっているものを動かすわけではなく、そもそも揺れて震えているものに干渉し、変化を促します。共振を誘い、引き寄せて引き上げます。

この世の存在には生物と無生物がある、と小学校で習いました。なるほど、とその時深く感心したのを覚えています。しかしその双方が実は振動し活動するものによって構成されています。まったくもって命とそうでないものの区別は不思議です。本当はすべてが命なのでしょう。

では一体、あらゆるもの、万物を構成するものの振動とはどこから来るのでしょう。そして命とそうでないもの、有機と無機をどう振り分けているのでしょう。その根源を有らしめているちからを、私は神、と呼びます。別の呼び名がふさわしければそれでいいのですが。

ですから、私は、レイキは神から来るちからだと説明します。すべてのものがそうあるように。

「レイキはそもそも誰にでも備わっている力である」と言われるのはそういった意味での真実だと理解します。すべての人が本来愛である、というのと同義です。

しかしこの肉体をもってこの世を生きる浮世にあって、レイキがあるとなしとでは世界が変わります。人生に愛があるかないか、神がいるかいないか、くらいの違いがあります。

レイキが使えるというのはどんな生活でしょうか。

マニュアルによれば、他者への治療的なイメージがあります。治療までは無理でも、手軽な健康法、民間手当療法というイメージが最初の間口かもしれません。一番よく聞くのが「こどもが病気のときなんかに使っています」という声です。専門機関以外に自分でもできる対処法があるというのは素晴らしいことだと思います。

しかしレイキのパワーはここまでお読みいただければご想像に難くないことでしょうが、それにとどまりません。

私は、レイキの基本は自己ヒーリングであると心得ています。マニュアルにも当然その方法は列挙されていますが、それこそが極意だという記述はありません。これは自分の体得したことですが、この点真実だと確信しています。

レイキは、わたしという生命を活性化します。意識を浄化し、不純物を癒し、不和を調和させ、存在を磨き成長させてくれるものです。この点がレイキエネルギーの根っこの働きです。

「他者を変えるにはまず自分から」ですし、「より良いエネルギーのパイプとなること」のために日々できることもこれに尽きます。

ここでも立ち戻るべきは「私たちはエネルギー、つまり常に動き変化し続ける存在である」という観点です。何もしなくてもどんどん流れ、干渉しあい、変化していくのが自己なのであれば、そこに「より良く」という条件を付けたいのが人間という生き物なのではないでしょうか。人間が神の子たる所以でしょう。

もし自己がいったん確立され、例えば大人になって身長が伸びどまったところであらかた固定され、一定の必要不可欠な物質やスキルや評価を手に入れたところで安定してしまうような存在が人ならば、レイキは単なるオプション、飾り、または無用のものでしょう。

しかし自己意識(潜在意識と呼ばれる領域)にレイキヒーリングを施し続ければ、私たちは存在そのものの進化を促進することができます。無限に神に歩み寄ろうとする道を歩み出すことになります。

どういうことか具体的に言えば、自身に高い波動を流し続けることで、干渉を受け、引き上げられた結果、心の領域の不純物が除かれ、想いによる限界の枠組みが解体され(エゴの解体)防衛本能という狭くて低い波動の支配から自由になり、防衛反応である攻撃性(怒りと恐れ)の武器を脱ぎ捨てることを可能にし、愛という魂の本源の実在性への帰還に導く、というものです。

かみ砕くと、ありがたいエネルギーをいっつも流しているおかげで自分が穏やかになり、そのせいか周りも優しくなるので幸せだし、困ったときにもなぜか守られてる感じがしてうまくいく。おかげでからだも楽になり、余計な心配が減ったなー。この世はいいところだ。みんなそうなるといいねー、といったところでしょうか。結果、おかげでより高度なチャレンジに手が届くようになるわけです。

さて、そんなたいそうなものを今まで持ってるのに使ってなかった、どうしよう、と思われた方はぜひたった今から使い始めてみてください。レイキは一度伝授されれば恒久的にあなたの経路に刻まれます。以前使ってはいたけどどうも実感がない、というか方も、いったん再活性化が始まるとまた前とは違った変化を感じられるかもしれません。

どう初めてよいやら、という方はその旨ご連絡ください。遠方の方はお電話セッションでもレイキの勉強や活性について承ります。また遠隔・対面のヒーリングによって再活性化を促すことも可能です。学びを深めたい方にはレイキ・ワークアウトをご用意しています。他所でアチューメントを受けられた方にも対応していますのでご相談ください。

末筆ながら本年もおひとりおひとりにとって実り多き一年となりますようお祈り申し上げます。この記事にレイキを込めますのでお受け取りいただけたら幸いです。

AZU拝