ロック!をめぐる雑文

2日くらい前にたまたまYouTubeで「はっぴいえんど」の動画を見た。その少し前には「ムッシュかまやつ」周辺とスパイダース関連の動画で「日本のロックはここから始まった」と言われていたが、はっぴいえんどもそう言われていた。

私は1966年に生まれた。66年生まれには少しだけ思い入れがある。

まず、この年は60年に一度の丙午(ひのえうま)という干支にあたる。この年に生まれた女性は気性が激しく夫を食い殺すという言い伝えから出生率が前後の4分の3ほどになっている。だから子供の頃はなんとなくゆとりで育っている。受験戦争のさなかにあって実際なんとなくのんびりしていたし、競争が苦手で個人主義的な仲間が多かった。

1966年はまた、人気絶頂のビートルズが来日した年として有名だ。後にも先にもビートルズが来日したのはこの時だけだ。私たちは圧倒的な迷信をものともしない両親の意志とロックの新しい風と共に地球にやってきた。なんてね。

だからと言って音楽の中で特にロックを意識したことはない。ものごころつく頃にはロックは音楽のジャンルの一つとして認識されていたし、7~80年代はアイドルと歌謡曲が花盛りだった。そして何より、テレビというスーパースターの全盛期だった。

テレビを好きじゃないなんていう人に出会うこともなかったし、ある時期まではテレビなしの生活を想像するのもこわかったくらいだ。お茶の間の中心にはテレビがあり、その上そのテレビからは四六時中、父の声が流れていた。そう、父の生業はテレビでしゃべることだった。我が家ではテレビはよその家庭以上の地位を占めていたはずだ。

私は歌が好きだった。しゃべり始めるのと同じくらいの時期からマイクに向かって歌っていた。2歳で鼻濁音を使って歌い、3才ではマイクを独占してMCもこなして歌っていた。そういう録音テープが父によって残されている。ピンキーとキラーズの恋の季節(68年)とか、黒猫のタンゴ(69年)なんかを。

父は当時、同人舎プロダクションに所属していた。のちにうちに遊びにきた声優のおじちゃんからよく「美緒ちゃん、事務所のデスクの上でピンキーのふりまね付きで恋の季節をじょうずに歌ってかわいかった、でもそのデスクでおもらししたんだよ」と言われた。幼稚園生の頃にはそんな記憶も忘れていたので「へえ、わたしそんなことしたんだ」と思いながらもう一度レコードを聴いて恋の季節を覚え直したりしていた。

テレビによって与えられる音楽を喜んで受け取り、それらを真似て歌った。私にとっての音楽とは時折父と母が好きでかけている洋楽がほんのちょっとと残りのほとんどを占めるテレビの世界だった。

自分が仕事にしていたジャズは、多分母の影響で耳と心になじんでいるものがベースだ。仕事のためにもちろん多少の掘り起こしをしたけれど、どちらかというと自分が歌いたいもので、歌えるもの、を探すという感じだった。

つまり私にとっての音楽とは、与えられたものに反応しているに過ぎないレベルの世界だった。全体像なんてつかみようがなかったし、つかもうという発想すらなかった。

演劇に関してはちょっと違う。私は一応大学の演劇専攻に通っていた。通っている間は勉強もろくにせずにただ演じたいという欲求をかなえることに必死だった。けれど3年で中退し、その後真剣に演劇を続けていこうと思ったとき、急に知りたくなった。演劇とはなにか、またその成り立ちというものを。それで結構真剣に学校のおさらいをやったのだ。

ポップスのジュリーや映画のショーケンが大好きで、ムッシュかまやつのわが良き友よが好きで、堺正章は西遊記とかでなんとなく好きで、というのはその時々、ばらばらに好きになる場面があってそうなったけれどその人たちの源流がグループサウンズにあることは自分には関係がなかった。その世界は過ぎたものだったから。

細野晴臣はYMOのベースの人という認識しかなかった。中学1年のお昼休みに校内放送でながれたTOKIOとそれを聴きながらお弁当を食べているクラスメイトの顔と教室の空気が忘れられない。

中学に入って合唱コンクールの自由曲の候補にフォークソングを提案してくる同級生にはたいていお兄ちゃん、お姉ちゃんがいて、アイドルではない歌手をよく知っている。今思えば雑誌というものに歌詞とコードが載っているのを見かけたことがある。お兄ちゃんがいる友人のおうちで。

高1の夏休みのバイト先で聴いてちょっと惹かれたナイアガラトライアングルとその後もずっと好きな佐野元春。でも大瀧詠一と細野晴臣のつながりは知らない。

右肩上がりの日本のポップで優雅なテレビCMの多くは大瀧詠一に作られたり歌われたりしていた。

そしてなにより、テレビから絶え間なく流れるヒットソングの中でもとりわけグッとくる詞はほとんどが松本隆という作詞家のものだった。聖子ちゃんの新曲をドキドキしながら心待ちにしたり、妹と一緒に「いいと思ったらやっぱり松本隆か!」なんて子供ながらにテロップの作詞:松本隆に「またやられた!」なんて思ったりしていた。

でも松本隆がいったい何者なのか、まったく知らなかった。

歌番組で森山良子の歌を聴き(ざわわとかそういうののもっとずっと前です)この人の歌い方好きだ~と思ったらムッシュのいとこだったりジャズマンの子女だったりする。

でも依然としてすべては点と点。テレビの世界ではこれはほんものだと言われていたものが明日にはただの売り物になってしまう。売り物は人気が落ちると価値も落ちてとたんに色褪せていく。なんだか昭和のテレビっ子は与えられたもので満足し、飽きたら新しいものをあてがわれ、とっかえひっかえいろんなものに夢中になり、でも本当の価値がなんなのかなかなかよくわからなかったのです。

しかしこんな私も新世紀の文明の利器、パーソナルコンピューターによって、自ら進んで掘り起こすことが可能ということを少しずつ覚えました。

ムッシュかまやつとその周辺のミュージシャンの話、そしてはっぴいえんどのメンツのお話はそれはもう魅力的だ。私が掻き立てられるのは、彼らは音楽の全体像を掌握していて、自分たちがその最先端にいることを自覚していることだ。まだ日本にないものをアンテナを伸ばして掴み、体現する。そこにいながらそれをやっていることを知っているというところなんだと思う。

根掘り葉掘りするうちになんだかちょっと、それまでのほうぼうに点在していた点と点の間がやや埋まり、日本の音楽シーンの流れる雲みたいなのが、私にもちょっと垣間見れた。というか、これまでもや~っとしていた雲の中にいたのにかたちや流れが見えてきてものすごく興奮し、気づいたことを夫に向かってとうとうとしゃべり尽くした。

夫とは10年ひと世代違うので、点と点の話をすると音楽は特に話が合いません。が、全体の雲の話は盛り上がる。これは楽しい。

結局のところ、音楽シーンというのはその世界で生きる人々の人間関係図でした。松本隆と細野晴臣と大瀧詠一は大学生の頃に学校の枠を超えて出会って知り合って仲間になっており、はたちそこそこの男子が時空を超えて愛される音楽を作っている。そのこともすごいですが、その地図が広がったり狭まったり薄まったり濃縮したりの線を描きながら世界が作られています。

太田裕美と松田聖子と寺尾聡と南佳孝と斉藤由貴とマッチと薬師丸ひろ子と桑名正博は同じ人の書いた詩を歌ってそれぞれ多くの人の心に歌を残しています。そう思うと世界はなんだかずっとシンプルです。

私はそれらのヒットソングをよく知っていて今もそらで歌えますが、点の奥に流れるものが見えないと、やっぱり世界は縮まらない。すべてがばらばらに並んでいて、自分との関係性がわからないし、その価値もわからない。それは私が生きるこの世界についてとまったくおんなじなんだなあとつくづく思います。

私たちの生きるこの世界は、意識のエネルギーという雲の中にあります。一見、個々に人がいて、それぞれ独立した脳を持ち、アイデンティティーを持ち、その中にある価値観に従って生きているように見えます。でも私たちは本当は意識のエネルギーの関係性の中に生きています。脳はその横のつながりを感知しています。時には感情といううねりで、時には思念で、そして無意識的な感覚で、またそれよりも深く大きな、愛のエネルギーによって、常にやり取りをしています。

それぞれのエネルギーの特性と作用がわかりさえすれば、この世で人間が引き起こす現象を理解できます。そうすると、その世界とのかかわり方がおのずとわかります。自分をどう扱えばいいか、どう捉えればいいかがわかります。

それはすなわち、自分とは何なのか、自分をいかに生きるか、と同じ意味です。

人間関係を作る元は、自分自身との付き合い方にあります。自分というエネルギーが今何をしているのかに気づくことからその付き合いは始まります。

あてがわれたものに反応している人生から、自ら掘る姿勢への転換は何よりも大事なのだと思います。それはそのまま、潜在意識という混沌の中で夢をみている状態からの目覚めを意味します。難しいことではなくて、自分とは何者だ、という問いにあと半歩踏み込んでみる勇気なのだと思います。

そこにはずっと親密でエキサイティングで広大な平和があります。ぜひナビゲートをご依頼ください。

死者の声を聴き続けて

前世療法のセラピストをしていての恩恵は自分にとって計り知れない。それは言ってみれば死者との対話だ。死者と対話することにどんな意味があるだろう。

死者は人生を終えているがゆえの達観した視野を持つ。それは時には後悔、悔恨などの心情であるかもしれない。近しい人の人生を賭した悔恨の情に、私たちは耳を傾ける価値がある。

私たち人間が祖先や先人を崇拝するのもきっと、そのあたりにわけがあるのだろう。常に生き死にをかけた淵に立たされている私たちの肉体意識は時として、いやほとんどの場合において、全体というものを見失っている。

私が、ある次元において過去世というものは確実にあると実感するのも、本当のところこの生の使者の声に深い真実味を感じるからだ。

数多くの生の死者の声を拝聴するなかでも忘れられず繰り返し私をなぞる声がある。それは、第二次世界大戦のおそらくアウシュビッツ収容所でガス室に送られた少女の声だ。彼女はガス室の中で死にゆきながら「死ぬのはこわくない。この中(同じガス室)によく知っている人がいないのが救いだ。その人たちが苦しむのを見るのは辛い」と言った。自分といういのちが終わろうとするときに切実に思うのはそういうことなのかと、揺さぶられる。それは本当に死にゆく人にしか言えないセリフのように感じられる。

例えばそんな声は私に、生きるとはどういうことか、どのように生きるべきなのかということを切々と伝えてくる。こんなにも多くの死者の声を私はどうしても無駄にしたくないと心から思う。

死者の声は決して神の声ではない。それはある一方から見た真実の側面を物語っている。同じように私たちも、この世で肉体とともに生きている限り、物事のある側面しか実際に触ることはできない。

私たちがものごとに行き詰るのはいつも、一方の側面しかわからなくなりそれがすべてのように錯覚してしまったときだ。私たちは常に一方しか体験できない。だからこそ、ものごとが本当に行き詰るということはあり得ないのだと私は確信している。

ガス室の少女は「次は戦争のない国に生まれようと思って、この国に来た」と言った。彼女からみたらこの日本は天国に等しい世界かもしれない。

それでも私たちは常にあらゆる側面を学ぼうとして、苦しみと喜びを交互に、あるいは交互だということすら忘れるほどどちらかに浸りながら生きる。

あまりにどっちも見てしまうと、それはどっちも本当じゃないんだと悟るようになるんだろう。よく体験することが真実だ、というようなことをいう人もいるが、体験するだけではなにもわからない。

どっちかではない、どっちでもない、それが魂の世界だ。

賢明な死者は必ず自己を省みる。どんなすばらしい行為をしてもあるいは全力で闘っても、おそらく真理を悟らない限り、神をみつけない限り私たちは充分に生きることはできない。なぜなら私たちは魂であり、魂はそのおおもとの神だけを探し求めているからだ。やがてそこに還ることが道だからだ。

ほしいものを全部手に入れるべく生きれば後悔しないと思っている人もこの世には多いかもしれない。なすべきことを全うしたら後悔がないと思っている人も多いだろう。でもそれは「ない」ということを死者は切々と語る。行為では内側を満たすことができない。それを一体どうやって伝えよう。

いや、多分、私が思い知ればいいだけなんだろう。私はそれを共有できることをただただ喜んで生きればいい。私に与えられたそれが世界なのだ。

究極のTHE REIKI

このたびまたおひとり、ライタリアンレイキのアチューメントの全工程を完了されました。ライタリアンレイキのアチューメントは、臼井レイキマスターティーチャーの、その先からスタートする、いわゆる発展形なんて言われるレイキヒーリングシステムの、いわば究極とされていて私も同感です。

レイキを学び日常にどんどん取り入れるに従い、もっともっと知りたくなるし、知らないことが明確になっていく意識とエネルギー、そして人間という存在について。

私自身がレイキに取り組むうちに、レイキって本当はこうなんじゃないかしら、誰かも同じことに気づいたり思ったりしていないかしら、と探して見つかったのがライタリアンでした。そしてその扉を開けたら。やっぱりそうだったか~!(笑)このやっぱりそうだったか~!という発見は本当に楽しいものです。古くから奥底では本当は知っていたことに、気づき、導かれ、出会う。真理の探究ってまさにそういうこと。

ライタリアンレイキを深く学ぶと、そこにすべての答えがあるとわかる。それは一度に全部わかるものではなくて、体験とともに、時間とともに、出会っていくものであり、そのように導く導き手こそがレイキだ。

レイキは、その根源や本質がわからなくても実際に使って役立てることはできる。伝授されたその日から使えるという優れものだ。電気というものがどんなシステムか、なぜそのように働くのか理解できなくても電化製品を使いこなすことはできるのと似ている。その恩恵に日々預かるほどに、その贈り物の贈り主についてもっと知りたくなる。(それって愛だと私は思う。)

私たち人間という存在も同じだ。人間とはなにか、命とは、人生とは、その存在とはなにかを知らなくても、お母さんから面倒をみてもらい、見様見真似で生き方を覚え、その延長に生きることはできる。しかし自分とは本当はどんな存在なのか、ということを問い直す機会に出会い、それを知り、それを生きる人は少ない。

私たちの肉体意識は、デフォルトでお母さん仕様にセッティングされている。お母さん仕様に不具合を感じたところから多くの人は自分への問い直しが始まる。最初は自分の出来損なったところの修復から始まるかもしれない。その工程は復讐にも似てとても辛い。

出来損なった(と感じている)自分とお母さんが深く関係している、ということすらちょっと以前にはわかっていなかった。今はそれを突き止めて、そこで苦しんでいる人も多い。でも真実は、それはただ、ひとりの人間が当然ながら万能ではないということと、お母さん仕様を卒業することが人生の本当のスタートだと言ってもいいほどシンプルだということ。

すべては神という生命の源からの贈り物だとはわかっていても、あるいは自分は本当はスピリットなのだ、とは受け入れていても、実際にスピリットとしてこの世を生きるってどんなことなのか、ということはほとんど誰も知らない。

それでいい。本当は重々わかっている真実を、実際に本当に生きてみたらどうなるか、というゲームに私たちは参加している。
暗闇を手探りで突き進むもいいけれど、そこに明かりがあり、地図があり、そして真理というお手本と、愛という完全無欠な秩序と、神というこの上ない無限の力とともにこの世を体験することもできる。

私はようやく最近になって聖霊とは何かがわかった気がする。父と子と聖霊との御名において、の聖霊。RUACHの聖霊。レイキは聖霊のちからそのもののように思う。と、そこまで考えてはっと気づいた。霊気だもの、当たり前か。その名前の通りだったのか。

さて、以下は、臼井霊気の伝授をお受けいただいている方からいただいたご質問へのおこたえです。その方へ伝えたい、という強い想いが言葉にさせてくださいました。いつもながら、ご質問いただいたことにとても感謝しています。手直しを加えてここに記させてください。


レイキヒーリングの世界ではレイキの根源は「宇宙の生命エネルギー」と説明されています。それゆえに、多くの人が空から降り注ぐイメージを持たれます。臼井レイキのマニュアルにもそのように連想させるような記述があります。例えばレイキシャワーのような。

しかし宇宙の根源的な生命エネルギーとはなんでしょうか。それは空や宇宙空間にあるものでしょうか。あるいは自然界の大気、鉱石、植物や陽光のなかでしょうか。それでしたら私たち人間という自然動物の生体の中にもそれはあります。しかしレイキは何かしらの物体のエネルギーを借りたり移動させるというものではありません。それは無限の、源から来るものです。それゆえに私たちはそのエネルギーを無限に使っても何かがすり減ったり目減りすることがありません。むしろ、使うことによって広がり、根付くのです。

根源的な宇宙エネルギーというのは、実は意識の中心にあります。私たちの意識は顕在意識、潜在意識、超意識、宇宙意識、というふうに大きく4段階に分けて考えられています。この最後の宇宙意識というのは、無限で、完全で、すべてで、一つである、という性質です。私はこれを通常「内なる神」と呼んでいます。

すべての物象の背後、あるいはその中心には、この内なる神が横たわっています。レイキで言う宇宙の生命エネルギーというのはこの宇宙意識ことであると私は理解しました。

臼井 甕男さんがブッダとキリストを探求し瞑想して授かったレイキエネルギーは、根源なる神からのちからを人間が使って自己意識を浄化し、あらゆる生命を癒し、活性化し、調和させ、そして「悟りへの道標」として(レイキサードのマニュアルに明言されています)、その歩みの杖として携えることができるように人間界に具現化し降ろされた技法です。

レイキは私たちのすべてがそもそも持っている力、根源なる神の力とつながる方法です。

霊気、という字は当て字でもなんでもなかったのです。霊(=根源なる意識・宇宙意識・スピリット)の気、つまり神の呼吸、息吹がレイキです。

これを聖霊と表してもいいかもしれません。聖霊とは、根源なる神=真理と、この次元(幻想、無常、3次元)をつなぐもの、と言われます。つまり私たちの祈りとはどんな時もそこに届けられるべきものなのです。

どうして遠隔ヒーリング・遠隔アチューメントというものが可能なのでしょうか。遠い宇宙や空からエネルギーを呼び込み、更に今度は遠く離れている誰かのところまでそれを送る、などと言うイメージはなんと遠回りで頼りないものでしょう。多くの人が自分の力に疑問を抱いています。本当にそんなパワーが自分にあるのだろうか、と。

そうではなかったのです。私たちは内なる神にヒーリングを依頼すればいいのです。内なる神はひとつですから、私が内なる神に依頼すれば、○○さんの内なる神として行ってくれます。私たちは内なる神によってつながっています。地球の裏側だろうが宇宙の果てであろうが、神はひとつですから、神が無限であるがゆえに、私たちは完全に時空を超えてそれを伝えることが可能なのです。

ですから私はレイキをするときにはハートの内側にそれを伝え、自己ヒーリングの際にはハートからのバイブレーションをただ全身に受けるようにしています。時には地球に感謝し、マスターや天使やすべての聖なる存在に感謝しますが、しかし依頼する対象はひとつなるものです。

レイキのパイプ、とよく表現されますが、レイキは神への直通電話だと思っています。いつもいつも電話していると、いつの間にか番号を覚えてしまう。そのうちボタンを押すより早くつながっている。そのうち、あれ?電話本当に必要?思うだけでよくない?だって相手は神だから、というふうになっていきます。

レイキの目指すところはそういうところです。いつもどんなときにもどんな状況でも、即、神につながっている、という信頼と安心が完全に自己の内側に根付くまで、繰り返すことです。

この仕組みをお伝えすると、多くの方は安堵されます。ああ、それならできそう、とおっしゃる方がほとんどです。みなさんどこか、無理をなさっているんだと思います。人間は自分が自然の生き物だということも、神に最も愛されているということも忘れています。

私たちは、神のように無限ではないですが、しかし神のように与えることができる生き物です。そのためにレイキがあります。まずはその愛をあふれんばかりに受け取り、その無限の泉の水をあなたが飲みなさい、そして、それから周囲の人に与えなさい、と。神は私たちがレイキを「再発見」できるように私たちに喚起しました。

感謝とともに
AZU拝