なんのために癒すのか

癒すという言葉の甘さから、癒しという言葉は好きではなかった。自分がかつて必要としていたのはそんなあまっちょろいものではない、という感じがしていた。今でもクライアントさんのなかには同じ気持ちを持っている人がいる。とても共感できる。

癒しは治癒であり、治癒とは肉体のことではなく、心のことである。からだの治癒は、心への気づきの段階に過ぎない。

ではアズさんはからだは完全に健康でバランスがとれているの?と思われるかもしれないけれど、決してそうではありません。からだはいつもあっちに揺れ、こっちに揺れながら、がんばって解毒し、それは時に不快感を伴うけれど、それでもなぜか感謝が沸き、感謝しつつ、日々できることを精いっぱいしている、というのが本当です。からだは不完全でアンバランスながら、私に一生懸命ついてきてくれている。

癒しは神の仕事であり、神だけに可能である。それは、癒しが心に関することだとわかったので理解できたこと。心の平安とは、肉体には存在せず、神と在る心だけによるもの。

バランス、というと、神と現実社会の両方に義理立てしようと思う人が多い気がする。これは非常に狡猾な罠だと思う。私もかつて、この両者に遣えようとがんばっていた。

この罠は、かつて地上で神とされたものの多くは二元性の神だったためではないか、と最近思い当たる。神は強いものを後押しし、弱きを淘汰し、恐れるものに罰を与え、自由から遮る。多くの人の集合意識に刷り込まれている神が、いまだこういった像を結んでいることから、神とつながることを恐れている人も多いように思う。そうして本当の神と分断されることこそが、分離であり、分離という幻想を産み続けることだ。

潜在意識の浄化が進むと、神は私たちの刷り込まれたイメージを払拭し、本当の姿を見せてくれる。神はすべてを育み、求める者に現れ、より小さなものに宿る。弱きものを助け、優しいものに多くの恵みを授ける。愛を持って安全と自由へと私たちを導く。そのための叡智を惜しみなく与える。

癒しは本当の神に遣えるものの仕事であり、ライトワークと呼ばれるものはそれである。光りという情報をもたらすというのは、神にしか不可能。なぜなら、それ以外の世界では、光は影、闇とセットだから。私たちはそのうちの光だけを取り出しもたらすことはできない。

内なる神と言われる領域の光りは、ただ、光りだけの光。あなたがもし、癒されるとすれば、平安というものを得るのであれば、この光とひとつであるということを思い出すしかない。

多くの人が神に選ばれるのを待つ。また、神からの贈り物を願い待っている。しかし私たちがしなくてはならないのは、神を選び、神を愛するということだった。贈り物を愛するのではなく、神そのものを。

どうして贈り物を通してしか神を感じられないのだろう。それが、社会への義理立てなのだと思う。神が一般社会の通念でいうところの良きことをもたらしたとき、私たちは神を受け入れる。しかし、本当に私たちが受け入れるものべきものは、神のやり方のほうだ。

神を選ぶというのは世捨て人になれというのと正反対のことだ。神のやり方を社会にもたらすことだ。それが神の光を地上にもたらすということ。そのためにはまず私たちは神を選び、神のやり方で愛することに同意しなくてはない。これまでの燃費の悪いやり方をやめ、神のやり方に慣れるのだ。

いのちというものに対する観念を、生きるという観念を、存在するということに対する観念を、社会のものから神の世界のものに塗り替える。そもそもそうだったというありのままに戻す。なぜなら私たちはありのままの上に別の観念を刷り込まれているから。

あなたがこの道を選び歩き始めたら、それを誰かと一緒に学びたくなる。愛さずにはいられなくなる。それが唯一の神のやり方を学ぶ方法だから。あなたは癒すために癒されなくてはならない。しかし、あなたに学びが必要な間、あなたは教える。教えることは学ぶこと、というのは、そういう意味だ。あなたに学びが不要となったらどうして教えるのだ?

私が癒しを仕事として選んだのは、より学びたいという願いを聖霊が聞き届け、場を与えてくれたから。そこには感謝だけがある。

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知覚の世界と愛の世界

記憶とはどこからもたらされるのだろう。

私は演劇をやっていたころ、「役者にはからだの記憶力が重要」とあるインタビューでしゃべったことがあった。父の友人である演劇人の先輩が記事を読まれ「とても本質的だね」とほめてくださった。

知覚は私たちが生きる上での恩恵をもたらす。しかしこの知覚の過敏が、この社会のシステム上、生きづらさを引き起こす大きな要因になっていると見える。

実際私自身の生きづらさとはなんだったのだろう。クライアントさんからも質問を受ける事柄だ。

苦しみと混乱のさなかに、「ああ、私が持っているものは、普通に生きるのに役に立たないものばかりだ」と嘆いた。外側のあらゆることに敏感に反応する。言い換えれば、入ってくる情報が多すぎる。それに翻弄されないために、思考をフル回転させて分析する。

生きるとはこの作業にエネルギーを費やすこと。

周囲に起こる些細な異変に恐れ、身構え、他者の感情を汲み取り、常にそれに応えようと内側で反応し、しかし的確に応じる器量は足りず、また小さな行き違いに常に傷つき、いったん傷つくと修復に時間がかかる。

一日の終わりには、ずたずたに傷ついてぼろぼろに疲れた自分がいる。分析してみれば、プライドの高さ、偏見、臆病さ、猜疑心、尊大な理想と伴わない現実、実力不足、などにさいなまれている。

それでも結果、仕事さえ何とかなればおそらく、「まいっか、しょうがない」とやり過ごすこともあったろうけれど、選んだ仕事は自分が常に試される仕事。外面と能力を常に量りにかけられ試され、切り捨てられる世界。

自分の外面、どう見られるか、ということに注意力のほとんどを注ぐが、自分が自分の思うようになる瞬間は限りなく少なく、しかしすべてを諦めるには惜しいと思わせる何かが自分の中にあることを知っている。

八方ふさがり、とはまさにこのこと。

しかしもちろんこれらのすべては自分が選んでいる。

自分について改めて学び始めたのは20代中盤から。インナーチャイルド、過去世の影響は莫大だった。しかし、平安を得た今感じるのは、それ以上の魂の意志について。

潜在意識と言われているものの中味はインナーチャイルドと過去世の記憶。肉体を通しての体験的な記憶だ。

では魂とはと言えば、肉体の知覚と感情のフィルターを通して濾し取られたあとの、もっと微細な愛の体験の記憶の領域。

潜在意識に着目するのは、本当はこの、魂の記憶のほうを思い出すためだ。魂にはすべてがある。魂の細胞は宇宙意識(神)から成る。

潜在意識を利用して幸せになろう、という発想はいかにも人間の思考が思いつきそうな発想だ。私たちはすでに、潜在意識を全開に使って生きている。私たちの肉体を支配している。

私たちが幸せになる道は、潜在意識の呪縛から自由になることだ。それを超えた本当の自分とともに生きることだ。

潜在意識というのは知覚の記憶。知覚的な習慣だ。体が勝手にそうだと認識している、という領域だ。

雨が降るとがっかりする人、浮かれる人、それは自由だが、その価値観に私たちは支配されているということ。前者がいくら「雨は良い」と自分に言い聞かせても、心身は冴えない。そういうことだ。

そこで知覚をコントロールしたい、という発想が出てくる。それが、潜在意識を利用して幸せになろう、だ。

ワークはそれを可能にする。しかしそれは乗り物の整備に過ぎない。

じゃあ、魂を訓練するんですか?との質問も受ける。

いや、それとも違う。魂は訓練を必要とはしない。私たちは魂を訓練できない。もしするなら神がしている。でも神と同等のものを訓練などできないだろう。

潜在意識を浄化することが重要だと気づいている人はたくさんいる。ではなんのためにそうするのだろう。

それは潜在意識をすでに整理する段階に来ている人への導きだと思う。地球上の物理次元の状態にもみられるように、私たちの内面も、生きるために必要な物理的な知恵はほとんど出尽くしたのだ。

そしてそれらが何の目的でもたらされたのか、再認識する段階に来ている。

魂はその目的に沿って私たちを内側から導く。しかし潜在意識というフィルターを通すと私たちはとたんにその目的から盲目になり外界に応戦し始める。知覚したことにいちいち反応し、防御したり攻撃したりする。これが、幻想の正体だ。

潜在意識の浄化は、魂の仕事の邪魔をしないよう、よけいな反応をしないように、役目を終えた反応をはずしていくことだ。

知覚の最終的な目的は、魂を運び、愛を実感することにある、と私は思う。恐れの攻防のための役割を返上し、愛を受け取るセンサーとして、知覚を使うと選ぶのだ。

外界への恐れに対してつないだプラグを抜いて、魂につなぎ直す。

外界への対処のために立てまくったアンテナの電源を落として、内なる神へのアンテナを立てる。

からだじゅうに刺さった棘を一本一本抜いて、内なる神に癒しを願う。

そのとき私たちは、再生する。復活する。本当の自己という存在を生き始める。それが世界を愛することだ。地球を、この世を、生きとし生けるものを。それが平和を創造することだ。

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自分探しの果てに

本当は誰もが、特別な承認と格別の祝福がほしいのだと思う。問題はそれをどこに求めるかだ。

最初はお母さんとお父さんの愛情に。学校では成績や人気や才能に。社会では評価、対人に。恋愛の対象、その相手そのものに。

過剰に求めない人は意外とすんなりと摩擦少なく歩めるかもしれない。でもどこかに欠如感というアンバランスを感じた瞬間、人は過剰に求めるようになっていく。人生いつでもそこそこ得られる人は少ないだろう。人は必ずどこかのきっかけで何かを失った、という体験をする。或いは慢性的に失いすぎていて気づかず虚無―無価値観に満たされている。

なにが足りないと感じるかによって、求めるものも変わる。経済、時間、環境、仕事、周囲との和、他者の関心、権力、地位など。しかしこれらの成果から内面的に獲得できるのは安全もしくは興奮のどちらか。

手に入れてしまうと始まる喪失への恐れ。手に入れてしまうと覚めてしまう興奮。

そしてまた別のものを探し始める。自分探しは終わらない。それを人生の旅だというのだろうか。

自分探しとは多分、特別な承認と格別の祝福を探す旅なのだろう。それはどこにあるのか。

私たちは得ては失うことの連続の途上に、気づく。エゴの足元がふと揺らいだ瞬間に。あるいは激しい消耗の合間に。決して失われないものを求める一瞬の内なる風を感じとる。

承認と祝福は、受け取る準備のある人に訪れる。積み上げた届いた人にではなく、失うことを恐れない人のところに。

手放すことは容易ではない。承認と祝福を信頼する以前には。

しかしいずれにしても恐れている間あなたは失い、恐れを諦めたとき、あなたは得る。永遠なるもの、という生を。

恐れを諦めたとき、怒りも裁きも消失する。そのときあなたはあけわたしている。あなたのエゴをあなたの神に。

永遠なるもの、それこそが魂の本質であり、神であり愛である。完全で終わりなく、私たちを満たし続け、目覚めという歓喜を生み出し続ける。

準備のために、あなたは少しずつ安心する必要がある。けれど、愛し始めるまでの間に手に入れたものは本物ではない。あなたはそれを手に入れたとしても、持ち続けてはいけない。いつでも手放す準備があることを魂に告げておくのだ。

愛し始めたとき、それ以外のものを手放すのは容易になる。承認と祝福を受け取ったとき、あなたはすでに神とひとつだ。

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