天のおつかい

幼少期のトラウマというのは根深い。しかし私はトラウマも人生の地図の一部だと思う。その地図を駆使して、幸せに向かって歩むことができればその地図は立派な役割を果たしたと言える。

しかし『インナーチャイルド』や『毒になる親』の影響は時に人生を破滅的に叩きのめす。

最近では多くの人が自分になにかしら躓きを感じたとき、そういった情報を紐解くのが普通になっている。しかし情報を入れることとワークすることはまったく違う次元のことだ。

私は20代の中ごろに人生最大の絶望を体験したのだけれど、それは何か失敗したとか失ってということではなくて、うまくいかない理由や、自分の中身を知って、すべてに絶望してしまった。こんなふうになっているにはすべて理由があったことが子細にわかり、なおかつそれをやり直したり立て直すすべはとほうもなく膨大な仕事に思え、ただすべては手遅れに思えた。つまり、土台に腐敗を見つけてしまったのだ。なにしろ自分は疲れ果てていた。あと少し、あと少しがんばればなんとかなる、という希望が全部消えてしまったのだ。

その絶望のさなかで自分へのなけなしの誕生日プレゼントとして本屋で手にしたのがエドガーケイシーの本だった。

今思えば、本当にこの世に助けがなくなったとき、天の使いは導きたもうたということなのだろう。あの時の導きは何度も書いているけれど普通ではなかった。まっすぐに本屋に入ってそのままその一冊に手を伸ばして手に取り、そのままレジに出す、という、まるで催眠術にでもかかったかのような動きだった。しかしそのときの感覚を今も鮮明に覚えている。行動自体は不思議だけれど感覚は本当に普通で当然、という感じだった。

ヒプノセラピーもちょうどそんな感じだ。言っていることはすごいけど、内面に派手な感覚はない。だから多くの人が拍子抜けする。

聖者が覚醒するときもきっとそんな感じだろうなと今では思う。私も今では、瞑想とかセッションとかで、時空を超えて超越的にわかるものがある。でもそのときも、ただ、ああそうなんだ、と思うだけで、それが啓示だ!というような感覚はない。ものすごくわかりきっていることをああそうだよなーと納得する感じに似ている。

(敬愛するヨガナンダ先生もグルであるユクテスワ先生に「私はまだ神がみつかりません!」と泣きついたら「お前はもうみつけているではないか」と言われたとあります。それで初めて、これでよかったのか、と納得されたようなのです。私はその感覚にすごく共感を覚えます。)

インナーチャイルドの理論を理論として読むことはとても勉強になる。しかし苦しみのさなかにある人がこれを冷静に自分に適用できるのかと思うととても疑問を感じる。私は、傷ついている人ほど不可能だと思う。

チャイルドの傷の一番深いところにある原因は「愛せなかったという思い」にあると私は思う。それほどに、私たちは本来愛だから。だから、親から傷つけられたこと、愛されなかったという思いを癒し始めることは本来に戻るスタートラインに立つことに過ぎない。

その人が、自分は存分に愛することができる存在だという実体験を人生に実感できたとき、初めてその地図は宝の地図になる。それは人生を生きることでしかなしえないことだ。

ワークは土台を一瞬で立て直す秘法だ。天の使いなのだ。

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原点と一歩

前回のブログ、『原点』と題しましたところ、なんとちょうど1000投稿目でした。偶然か、はたまた必然かお導きか。みなさんお付き合いいただきありがとうございます。

また先日22日は夫の39回目のお誕生日でした。彼のお誕生日ブログ、私へのプレゼントのようで嬉しいのでこちらに貼っておきます。よろしければこちらもお付き合いください。
あなたに合った治療法—誕生日

夫が39才の立派な中年の領域に突入するとともに、今年50才の私は夫から早くも初老と呼ばれています。まあ確かに、老眼もひどくなってきたし、先日会った弟からは「わかった、ねえさん髪のボリューム減ったでしょ。うふふ、かわいそう」と温かい笑顔で指摘されました。

もし私が霊性に目覚めていなかったら本気で憂鬱になっていることでしょう。早めに肉体意識から自由になっていたことを本当にありがたく思います。そうは言ってもこの世と魂を体験するためにはとても大切な肉体です。最低限のお世話と敬意はもちろん心がけております。

昨年あたりは50才が近づくにあたって、あと20年くらいがんばれるかな、20年の間に何がどこまでできるんだろう、などと若干気負った思いがありましたが、今日あたりふと「いやいやそうじゃないよ」と気づきがやってきました。「肉体の生命力の減速とともに為せることもだんだん収束していく。それでいい」のだそうです。なんだ、つまりは今までいっぱい乗り越えたり気づいたりしてきたことが集大成化されるなんて幻想を抱いていたんだ。むしろだんだん人生がおまけになっていくんだな、と、今朝がた悟りました。

どっかまで行く必要はまったくない、とわかっているつもりでも、ついつい過去の記憶の延長で気持ちは走っていこうとしていたんだと思います。それが肉体意識の記憶なんですね。

私たちはほおっておくと肉体意識の記憶(潜在意識)が優勢になって、過去の録音テープをいつまでも再生するように今日一日を過ごしてしまいます。それは創造というよりは消費です。

人生を消費するのではなくて創造する、というのは、やりたいことを探してやる、というような欲望を達成する生き方ではなく、ただいつも気づきによって愛と真実を思い出すことなのだと思います。なぜならその本質こそが不滅のものであり、それ以外は過ぎ去るものだからです。

そう言うと愛ってなんですか、と言う問いが聞こえてきそうですが、もし本気でそう思われたらぜひ、ご自身に真剣に問いかけてみてください。そのために瞑想してみてください。その問いには必ず何かしらの返答があるはずです。その答えの主こそが、本当のあなたです。この世で最も親密にするべき友はその存在です。

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原点

家族内の不和、将来・未来への不安、からだの極度な不調、自己不信、恋愛の失敗、パートナーシップの失敗、お金の不足、仕事につけない、できない、選べない、慢性的な憂鬱、疲労、無気力、悲嘆にくれる、孤独感、尽きない悲しみ、あらゆる恐怖、不眠、生きていたくない、死にたいと願う。

私が体験してきた、このままでは生きていけないと決意させた要因はてんこ盛りだ。これらのすべてが指さす方向は絶望しかなかった。これらの状況は高校生くらいから始まり、人生が進むにつれて順繰りにそれぞれ深刻さを増しながら私に迫ってきた。

逃げ回って生きるにしては長すぎると感じる人生をなんとかするには結局のところ、自分が変わるしかなかった。自分が変わるとはどういうことなのだろう。言葉では何とでもいえる。変わるのではない、進むのだ、という言い方もある。ありのままのあなたでいい、とか、いろいろと言われている。けれどそのさなかではとてもそんな言葉では納得できなかった。そのままでいい、というのは「地獄にいなさい」と言われるのと同じに感じられたし、進めと言われても、地獄からは地獄しか見えない。一つの地獄から這い出して別の地獄を体験するなんてこの世は狂っているとしか思えなかった。

今ではこの地球に同士はいるということがわかる。多くの人が苦しみの中で、自分の何かが間違っていてそれが悪いに違いないと感じている。当然、私もそう感じていた。「変わらなくてはならない」という考えはそのまま、自分がいけないか間違っているか、と理解するように人間は仕込まれているのだ。

しかし本当はそうではなかった。私たちは、自己を罰することや間違いを正すことではなく、もっと愛することによって変わる必要がある。

正しさ、というのは高次の意味では、より愛であることである。しかし人間の思考はそうは理解していない。だから私たちはもっとそれについて学び、そして変わっていく必要があるのだ。

自分を愛する、とはどういうことだろう。自分と向き合うというのは欠点と間違いを探す旅ではなく、愛の浸透していないところに愛を満たしていく行為だ。

原点は、自分をよく知ること。しかし欠点と間違い探しに終始せずに、愛とともに学ぶには、絶対に神への信頼が必要だ。私たちは神の視線によってしか、自分を赦すことはできない。利己的にではなく自己を愛し赦し受け入れるためには神という高次の愛という中心が必要であり、究極的にはそこに向かうこと以外に私たちを前に進ませるものはないのだ。これはやってみようとした人にはきっとわかる。

ワークはそのためにある。鍛錬は、訓練は、そのためにある。

そのレッスンなしにあるがままである人はいない。あるがままとは受け入れることだから。

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