冷え取りとスピリチュアル。


1日1クリックの応援
いつもありがとうございます!

P1000012
15年ぐらいの付き合いになる幸福の木が初めて咲こうとしています^^

こんばんは。沖縄はようやく暖かくなったかと思うと、今日は若干暑いです。半袖短パンの方をみかけるようになりました。しかし我が家では、冷えを取るというテーマがありますので、靴下2枚、スパッツにパンツという、下半身二枚重ねを敢行しています。

心身の浄化には常に心がけているのですが、冷えについて突っ込んで見てみるとこれはエネルギーの世界の邪気というものと重なるところが大きいと思いました。実際、鍼灸をしている主人の世界(中医学)では病の原因を寒邪と言います。他にも原因となる邪はあるのですが、このへんは専門ではないのでいつか主人に書いてもらいたいです。ご興味のある方はご質問ください。

東洋医学を勉強すればするほどそうだと思うのですが『これにはこのツボが効く』とか、最近よくある『この症状はこういう意味(メッセージ)』などという見方は単純すぎてなんとも言えません。私も昔はそういうのオタクかというほどの耳学問読み学問好きだったのですが、更に追求していくと結局すべては心に結びついているというわかりました。そして東洋医学でも各邪の更なる原因は心の乱れ(心のエネルギーの乱れ)にあると言います。

それは人間がスピリチュアルな存在、ということと繋がっています。心を更に細かく見ていくと意識の仕組みに行き着きます。人間は肉体とそれに付随するものだけの存在ではなく、無限である意識を本質とする存在だというのがスピリチュアルという世界観です。

私がスピリチュアルのワークという仕事を始めた頃は、スピリチュアルという言葉は普通用語ではなかったのですが、今はスピリチュアルという用語がひとり歩きしていて特殊な能力を軸とする不思議な世界を指し示すようになっているように見えます。確かに目に見えかたちになる世界だけを基準に見た場合、その常識を超える不思議さは存在します。けれどそれは、ただ私たちが仕組みを知らなかっただけのことです。化学反応の実験だって、仕組みを知らなければ手品のように見えます。スピリチュアルの世界はとても科学的で、迷信的なものの仕組みをも解き明かしてくれます。私が好きなのはその点です。見えていなかったものを見えるようにしてくれるのです。

最近振り返って思ったことがあります。私が10年以上この仕事を続けてこられたのは、この仕事が普遍性を持ったものだからだだということです。例えば、自分がスピリチュアルな存在であるということを自覚していようがいまいが、前世を信じていようがいまいが、私のワークは機能します。幸せになりたいと願うすべての人に役立てるはずです。すべての人には感情があり、感覚があり、思考があります。そして人間は肉体がおとなになった後の成長は外側に目を向けるのが一般的です。仕事の成果とか、財産が増えるとか、家族が増えるとか、そういう繁栄が一番のしるしになってきます。ですが本当の成長や前進というものは内面でしか測ることができません。

また外面的な成功の多くは、他の人間との関係、世に言う人間関係の問題と関わります。多くの人が自己実現には個の才能や能力が関係すると思っているかもしれませんが、本当は人間関係であり、その原因は自己との関係になります。内面の問題になります。このように外側の問題は自己の内面に集約できます。

また、人生における成功というのは結局のところ、内面の満足とその満足に対して還す感謝による奉仕で回っていきます。これは純粋なエネルギーの循環になり、その循環は繁栄という副産物を生成します。しかしかたちだけ、見せかけの満足、感謝の循環はどこかで破綻してしまいます。

人生はどこまで行っても、自己との付き合いであり、世界観というのは自己認識であり、追求していくには神という、霊の理想による導きが必要になります。そういった究極のお手本というものを人間は心の中心に見出す能力を与えられているのです。

最初の冷え取りの話に戻りますが、私たちはとても微妙で絶妙なバランスの上に存在している、微妙で繊細なある意味奇跡的な生き物です。心の在り方(持ちようとは違います。)がからだを形成し、周辺の世界も染めてしまいます。通常動物はもう少し安定した状態を保てると思うのですが、人間はそうではありません。心は不安定で変化し続けます。そしてこれでいい、というものがないのです。

まず直立歩行した時点で生き物としてのバランスを崩しました。腰は負担を背負い、足は冷えるようになりました。でもそのおかげで人間はより探求するようになったのです。より良きものについて。この身体はとても不自由なおかげで私たちは想像力を豊かにしました。空を飛んだり、未だ見ない世界をイメージできます。この不安定な感情は、共感によって他者をより深く知ることができます。そして愛することができるのです。

ですから、身体をケアしてあげることはとても大事ですが、完璧である必要はないと私は思います。それよりも、完全で無限であるものを内包する内なる自己にぜひ親しむと、人生はすばらしいものになります。身体はその入口であって魂を運ぶ乗り物でありなにより内側にあるものを実感し表現する大切な無二のものです。この世にあってなにを実感して生きるのかをしっかり選びたいものです。

私がセラピーを通して知った真実。


1日1クリックの応援、いつもありがとうございます。
更新遅くなりました^^

人間の思考は認識のために常に比較をします。感じることをやめて思考に自分を任せることは一見合理的で知的見にえますが、思考は潜在意識の反応に従って価値判断をくだし、身近に感じられる手っ取り早いものを基準に設けてそれと何かを比較対照しものごとを認識していきます。

「潜在意識って、いいものだと思っていました」と先日おっしゃった方がいらっしゃいました。そうですよね。潜在意識を活性化して成功哲学に利用するなどのやり方はビジネス書などでも知られていて、あたかも人間の能力、超能力ばかりが眠っているところみたいにイメージされがちです。

潜在意識は、五感を通して認識された記憶全体です。体験から得た肉体的感覚の記憶の貯蔵庫みたいなものです。思考(顕在意識)に比べて100倍とも10000倍とも言われる意識の領域です。もちろん役に立つ面も多々あります。才能は過去世の人生での訓練の賜物で、これらも潜在意識の中にありますから、それはきっかけによって引き出され生かすことのできる記憶です。

ここにはそれ以外にも混沌とした不条理な命題がいっぱい詰まっています。幼少期に体験から刻まれた信念などが無秩序に入っていて、真実ではないことだらけです。セッションではよくこんなふうにお話します。

お母さんの声が優しくて(聴覚)抱っこされたらあったかくてやわらかくて(触覚)いい匂いがして(嗅覚)辺りは明るく光が差し込んでいて(視覚)おっぱい飲んておいしかった(味覚)。それでとっても安心していい気持ちだった(価値)。

潜在意識の記憶はこんな感じで赤ちゃんである私たちに刷り込まれます。そしてこんなふうに受け取った感触と価値を『愛情』として記憶したりします。

反対に、お母さんの声がピリピリして、お顔も恐くて、お腹がすいて元気がなくなったからおっぱいちょうだいって泣いたけど、お母さんはどこかに行っちゃって、その間とても寂しくて不安で、辺りは薄暗くなってきて、寒くて、でも自分ではなにもできないし、とっても辛かった、などという記憶は、日常にありがちな些細な一瞬の出来事のようですが、赤ちゃんにとっては永遠の不吉な無力な時間であり、これを『愛情不足』として記憶したりします。トラウマ的な記憶とも呼びます。

トラウマって、もっとドラマティックだったりエゴイスティックなイメージがあるかもしれませんが、年齢退行療法を長いことやっていると、こういったことがあとあと、影響を残すことが多いことがわかります。不可抗力で誰も悪くないのに、傷あとは残り、こういう記憶を核にして、寂しさ、不安感、愛情への飢え、無力感、自分への無価値観のような観念が意識の中に巣食うように根付いています。

この愛情と愛情不足の記憶のどちらも絶対的な真実ではありません。たまたまそういう体験をしたというところから、その人がそのように受け取り、そこに価値基準がセットになってしまっているだけです。

もちろんたったひとつの記憶だけでそれがトラウマになって強力に影響を残すとは言えません。もっと言えば私たち人間は集合的意識のレベルとして、これらのマイナスと言える感覚を共有しています。サバイバルの長い動物としての歴史から、これらの感覚は私たちの本能的とも言える自己保存の意識にも根深く結びついていると考えられます。

心のセラピー、ワークはこういった体験から作られた思い込みを解くことに始まります。

あったかい=良い。
冷たい=悪い。
明るい=いい。
暗い=悪い。
こういうレッテルを剥がしていきます。
人によっては、鉛筆=良いとか、洗濯=悪いとか、金=良いとか青=悪いとか、そういう意味付けや価値基準があるかもしれません。
地域や文化によって昔からそうなっている基準もありますし、好き嫌い、というのも多分にこの思い込みに左右されます。

こんな価値基準のもっとも重大な罠は、自分の価値、人間の価値についてもこれらの付随的な条件付けによって測ってしまう点です。

『自分を愛する』という取り組みを難しいと感じる人の内面を観察していると、その理由がわかります。それは、自分を耐えず周囲の他者と比較して、その比較の結果を好きになろうとしているのです。

「この点で私はあの人に劣っている。だけど私は私を好きでいなくてはならない。」
「この点で私はあの人に優っている。だから受け入れられる。」
「本当に優っているかどうかはわからないけど、これは好きだ。(或いは正しい。)だから愛せる。」

こんなことをしています。それで、愛せる項目を増やすために、或いは減点を減らすために努力しています。その努力は、ある程度役に立つこともあるでしょうが、しかし愛するというもっとも大事な点においては機能しないでしょう。だから多くの人が苦労しています。

まず、愛というのは好き嫌いとは関係がありません。好き嫌いというのは先ほど書きましたように、何かしらの体験から来る価値基準に無意識的に照らされています。または思考によって合理的と判断されたことで受け入れやすく安全な感じがするという心理から来ることもあります。これを好きでいることは、社会通念からいっても通りがいい、だから好き、みたいなものです。人を好きになる時に、こんな仕事をしているし、こんな学校出ていて、国籍はこれで、家族構成はこんなで、財産はこれくらい、だからとっても好きになりやすい、みたいな感じです。財産は、というところで多くの人はそれは違う、関係ないと思うかもしれませんが、仕事とか趣味とかその人の好き嫌いなどについてだとその人を判断する材料として誰もが考慮するのではないでしょうか。プロフィールにも好き嫌いなどの項目はよく載っていますよね。もちろんその人がなにに心を惹かれるか、というのはその人の意識の波長や霊性とも関わっているので、その人を知る上で重要だとは思います。

しかしそれとは別に、人間は嫌いでも愛することはできます。愛という次元は好き嫌いの次元を超えています。キリストは「汝の敵を愛せ」と言いましたがまさにこのことでしょう。これを理性の愛、アガペの愛というのですが、人間は思考によって好き嫌いを決めつけることもできますが、理性によって高次元の愛に自己を近づけていくことも可能です。

そのために、思い込みを外していくのです。それをするかどうか選ぶのは自分の意志です。しかし意志や思考や理性だけで愛することはできません。愛は感じるものであり、実感するものです。ですから私たちは感情、感覚の領域である潜在意識を再教化していく必要があります。思い込みによってただ反射している意識の習慣を取り除いて、もっと深く広い、高次元の領域であるハートで直に感じるようになっていくのです。これが自己意識の浄化であり、癒しです。

愛するというのは、あるがままにそれを観るというのと似ています。自分なりの価値基準のフィルターを外し、そのものを観ます。当然、比較してそれを知る、というふうにはしません。比較してその価値を知ろうとしているのは思考ですが、思考自体はそれを知っても愛することはできません。あるがままを観ることができるのは愛という視線です。それができている時、ハートが開いている、と言うことができます。

開いても大丈夫、開いたほうが楽、というふうになるには、心(自己意識)のお掃除が必要です。人間は恐れがあると心に鎧を付け、扉を細く閉じて、自分を守ろうとします。その結果、自分に差し込むおひさま、流れ込む愛もちょろちょろとか細いものにしてしまいます。あるがままで幸せであるにはこの恐れている状態を手放す必要があります。

恐れは思い込みによって増幅します。増幅した恐れは実際にある脅威から身を守る以上に強固な守りを固めようとします。それを等身大に戻してあげるには、過去に身につけてつけっぱなしになっている、実際は役目を終えた鎧を外して、手放してあげる必要があります。そして、鎧の中に隠れている気づいていない思いに気づき、思い込みの誤りを修正しておげます。さらに、新たに真実に自己を守ってくれる真実の守護神を見つけ、親しむ必要があります。その真実の守護神が、誰もの内にある神と、その愛です。

恋愛についての一考察。


1日1クリックの応援ありがとうございます。
応援身にしみて感じます!

沖縄で暮らして6年目に入り、いろいろな次元で刷新される感覚を味わっているこの頃です。結婚からもまもなく8年目に突入します。結構な中堅の領域に入ってきました。これはいつも思っていることではありますが、風間真吾という人と結婚できたことは、私の人生のもっとも大きな収穫であり神からの最大の贈り物です。振り返って思うのは、その思いは日毎に深く大きく、確信になっている、という発見です。

夫婦というのは面白いものです。ひとりのひとが異性を愛して結婚すると家族になる。我が家には子供はいませんが、カップルが家族になるということにはやはり大きな違いがあります。

先日お電話カウンセリングでいただいた印象深い言葉がありました。「恋愛って私が想像していた何千倍も奥が深いです!」

私もまったくもってそう思います。すべての人間は愛を体験するために肉体を持ってこの世に来ています。これは恋愛という意味ではありません。あらゆる存在とその関係性における愛です。そしてその愛というのはどこまでも無限に成長しうるものです。私たちは無限の愛をどこまでも体験し続けたいのです。表面的にどう思っていようとも。

無限の愛というのは言い換えれば神の愛です。ニューエイジふうに言えば高次元の愛、無条件の愛とも言えます。神の愛は実在するすべてで、すべてを含み存在し内在し育みまたそれらを超えて包括しています。宇宙のあまねきすべての背後にある存在させる力でもあり無でも無限でもあります。そんなものを人間が実感できるのでしょうか。しかし人間は神の似姿に創られたとも言われています。ですからきっとできるはずです。

そんなたいそうなものと巷の俗世間にありふれている恋愛というものは、似ても似つかないもののように見えます。でも、人間が体験できるとてもシンプルな、愛を育み体験できるチームはカップルであり、親子であり、家族でもあります。そのチームを足がかりに私たち人間は神の実験劇場で小さき神の子として奮闘しています。実験の目的は、愛を体験し探求することです。

私はこの実験に最もふさわしいパートナーと出会い一緒に実験に取り組むと約束することができました。どうして約束が必要かというと、この実験はなかなか難しいものだからです。心から、神に誓って約束しなければ途中で挫けそうになったり、疑いが出てきたりして、逃げ出してしまいたくなるような仕掛けがあります。確認テストもたくさんあります。そして毎日繰り返しドリルという課題が出ます。思いやりや根気や忍耐や精神力や赦しや、また技術や工夫も必要です。そうしないとこの実験に取り組み続け、すばらしい結果を受け取るのはどうやら難しいのです。そしてその受け取る結果というのはいつ、どのようなかたちなのかあまり公表されていません。いったいどうなれば最高金賞なのか、みんなこれという確証のないまま始めなくてはなりません。

でも私はどうやらその受け取り方が見えてきました。ギフトは毎旬やってきます。それは一見とても普通の日常のように見えますから、見過ごさない目が必要です。そうです。ギフトは普通の中に完全を見ることのできる目なのかもしれません。『それ』は、最高金賞!というより、『完全』に感じられる喜びです。『完全』というのは、なにひとつ狂いのない、どこまで細部に至っても見事に繊細に描かれた幾何学で成り立つ絵のようです。全体では平凡な図柄ですが、一本の線がよく見ると幾何学模様になっていて、どこにも破綻がない、そんな感じです。伝わるでしょうか。

私たちがこの世に持ってくる人生の地図は実はこんなふうに描かれているのではないでしょうか。全体を漠然と眺めるだけではその図柄の良さはよくわかりません。でもその細部に自ら赴きその幾何学の道をその足で歩むと初めて、その素晴らしさが実感としてわかります。その道を概ね歩き終えた時、初めて全体の図柄の意味がわかります。またはある一定のところを歩き終えたと思うと更にその一本に見えた線が幾何学でできており、その細部に更に入り込んでいく。その図柄は実は幾重にもだまし絵のように構図が見て取れるかもしれません。

そして平凡な家族や、一見欠陥だらけの構図の意味がだんだんわかってくる。意味というのは理屈ではなく、大いなるはからいのことです。そして自分の足で歩き尽くしたときに、その図柄全体を心から愛せるようになっていて、そしてその意味、はからいに魂からの感謝が生まれます。神の愛は、与えられたすべてを進んで体験してみないことには理解できないものではないでしょうか。

この世に今存在しているすべての人にはお父さんとお母さんがいます。どんなかたちであれどれほどの時間であれ、ふたりはカップルでした。恋愛というのは本当に小さな愛への扉です。でも人は恋という一瞬の盲目に陥った時に、普段では出ない力が出て普段なら恐れをなすような壁をも突破できることがあります。それは愛というより本能です。でも、そんな突破口を与え共に突破してくれた相手と、今度は恒久的に愛を育んでいくと約束をするのは理にかなっていると思いませんか。あんなパワーが引き出せ合える相手となら、今後の難しい実験も一緒にきっと乗り越えられるかもと、その可能性を信頼できると思いませんか。恋はその最初の信頼のために神が与えた本能ではないでしょうか。

思いやり、根気、忍耐、精神力、赦し、技術、工夫、それらは愛を地に降ろすための大切な資質です。でもすべては完全なる贈り物を受け取るためのもの。惜しみなく注いでもあまりあるほどの愛がそこに待ち受けています。

もちろんいつも言うように、結婚がすべてではありません。でも、求めてください。この世に生まれてきて、存分に愛させてくれる存在と出会えますように、と。それは自分自身でもいいのです。もう出会っている人は、もちろん存分に愛してください。そして限界にぶつかったら見直ししてください。私が無限の愛に設けている制限はなんだろう、と。ブロック、というのはこの制限のことです。

神の実験の目的が愛だということは明らかです。私たち人間はそのために与えられた知性におぼれて時にそのことを忘れています。使命を思い出すのであればそれ以外の答えはありません。使命を思い出すと多くの人は困惑するでしょう。どこから始めていいかわからないからです。知性は目に見える成果に慣れすぎています。最高金賞獲得のため以外の努力は評価されにくいものです。けれど、本当の使命に目覚めてください。汝の隣人を愛せよ、という聖書の言葉は本当です。聖なる書物には本当の使命についていつも書かれています。