お知らせとエネルギーの更新について

こんにちは。

今日はまずお知らせです。セッションのメニューを追加いたしました。

スピリチュアルカウンセリングをこれまでの3時間枠から1時間ごとの枠へと変更いたしました。

3時間というととても長く感じますが、実際にセッションに入るとあっという間です。そこにヒーリングやヒプノを加えていくとものすごく濃い内容ものになります。けれどもみなさんのおかげさまで、私自身も体験を積むことができ、短時間のセッションでも納得の行く内容をご提供できる実感ができてきてるのと同時に、繰り返しいらしてくださる方や、初めてでまずは短い時間から行ってみたいとお思いの方にも選んでいただけるよう考慮させていただきました。

設定と料金ルーアのサイトをご覧ください。

メニュー、料金 – トータルヒーリングスペースRUACH[ルーア]沖縄 心のセラピー

最近の私自身に対する発見は、言葉による祈りのパワフルさについてです。私は元々『言葉』に対して特別の思いがあり、言葉による表現、言葉のちからに対する信頼と愛があります。

レイキヒーリングを探求していくと、これは究極的には最高次元(神)に対する祈りであると理解するようになりました。レイキの研鑽をつむということは、祈りに対しての気づきと修練と理解の道を歩むことと同じです。そして徐々に祈りというものがどのようにしてどこに届けられそしてそれがどのように自分に還ってくるのかが体験とともにわかるようになります。意図する、ということの重要さ、またその意味が仔細にわかるようになるのです。

その中で最近発見したのが、自分の言葉による祈りがとても明確に届けられていることでした。これは当然といえば当然ですし、元々そうであったはずなのですが、自分が知っている以上に、実感していた以上に、本当にそうなんだなぁ、とまた再認識させられるような実感を感じたのです。

イメージというと多くの人がビジュアライズのこと、というふうに受け取るようです。ですが、イメージは必ずしも絵柄にすることではなく、感覚のあらゆる機能から結ぶことのできる像です。言葉にもイメージがあり、それが言葉の持つパワーでもあります。

同時にこのイメージは感覚によって結ばれるが故に、思い込みによってもパワーを持つことになります。私たちは内面で無意識的に働いているこの『意図しない』パワーによって望まない現実を創りだしています。内面に向きあうこと、取り組むことというのは、無意識の領域を開拓し、意識化することです。そうすることで私たちは自己の創造主になることができます。スピリチュアルのワークはすべてこのためにあると言っても過言ではないでしょう。

スピリチュアルに生きることは、幸せになることです。なぜならそれが、創造主となり神の天国に戻って天国で生きることに繋がるからです。

私たちはどこから来てどこへ行くのか

心の探求をしていると、出てくる言葉は「人間てすごい」です。人間界で起こる色々な問題を見ていると「人間てひどい生き物だな」という思いが沸いてくるもの確かですが、それは人間の一部分の特性にすぎません。あまりにひどい業を目の当たりにするとうんざりもしますし絶望しそうになることもありますが。

しかし、人間の特性の中でどちらが有名かといえばやはりひどい面、うんざりする方の面であり、人間の本当のすごさのほうはほとんど、まだ知名度がないように思います。この素晴らしさに多くが気づき共に生きることができたら、世界はどれだけ素晴らしいものになるのか、それを見てみたい。できればこの目が黒いうちに。

人間には無限の可能性があります。それは、特別なことができるとかまだ発明されていない文明を創りだす力などではなく、人間がすでに持っていて、知らずに使って生きている能力のことです。意識というのがそれです。

人間の意識は大きく4つの領域に分けることができます。

1,顕在意識

2,潜在意識

3,超意識

4,宇宙意識

1と2はエゴです。3は魂(ハイヤーセルフ)、4は内なる神で、順番に表面から中心へ、或いは浅いところから深いところへ、向かうと観ることができます。私はいつもセッションではまるを書いて表面から順番に説明していきます。

意識の内なる探求をしないということは、1番の部分を自分と認識し、この部分で世界を認識して生きるこということです。しかし実際には2番を使って生きている(反応し選択している)ので自分が1番だと思うと、世界は思うようにならない、と感じます。潜在意識は、五感を通して得た記憶の貯蔵庫で、感覚、感情、本能の領域です。過去世の記憶もここにあります。今世では3歳までにこの領域の基盤が作られ13歳で蓋がされると言われているので、この領域をインナーチャイルドと呼びます。インナーチャイルドは今世の潜在意識のほぼ全部をさします。

1番:2番は1:100とも1:100万とも言われます。したがって、内面と向き合わずに生きるということは、ほとんどなにも意識しないで生きているのと同じことになってしまいます。自分や自分の人生を創っている本人でいながらその本人を黙殺して生きるのと同じです。それでいて人間は1番であれこれ画策し、理論づけたり組み立てたりし、そのとおりにならない人生と格闘するのです。

私が人間てすごい、と言うのは、そうしながらも人間はなにかを思い生きて、生きるうちにいつしかこの、内なる創造主の領域に出会うようになっていくというこの深遠なシステムについて、そしてその領域そのものについてです。その内側の天国を知るには何度も何度も転生を繰り返し(1つの魂が1000~10000回くらいしているのではと言われています)外側の世界を追いかけ(欲望)、そして絶望しその挫折を繰り返す必要があるということです。そしてあるとき、もしかしたら、探していた青い鳥は私のおうちにいたのかもしれない、と気づくということです。

それに気づくために私たちはどれだけの無謀なゲームをし、自分や他者を傷つけて、奪ったり奪われたりするという二元性のおいかけっこを繰り返す必要があるのか。最初に見つけたかったのは、ただ愛だったのに、それを得るために、その他のあまりに多くのものを得てはこれではないという絶望を繰り返し、それによってまた自分を傷つけ、他者を傷つけているのか。

それほどに人間という生き物は確かに欲深い。しかしその欲の矛先が失われ尽くした時に、本当に求めるべきものに向かって進むためにその欲求というエネルギーが備わっていたのではと私は思う。それすらも神が創ったのだ、と。人間はどこから来てどこへ行くのか。それはなにも難しい問ではなかった。しかし、それを実際に人生の中で確かめる道を歩むかどうか、それが重要だったというわけです。

私腹、至福考

12-09-26_002

沖縄南部は強風域に突入しました。とたんに空は嵐もようとなりました。

私たち人間は、個々の魂のカルマを乗り越え消化していくとだんだんと内なる光の存在が感じられるようになります。自らの光を遮るような在り方から、共にある在り方になることは幸せです。不調だったところにことごとくエネルギーが流れて調和し、周辺の景色は変わります。自身の内なる光の放射によって、そう見えるようになるのです。特に家族というカルマ的な繋がりの強い関係に光が流れる体験は、神からご褒美をいただいているような幸せを味わうことができます。

そこで私たちは、ただそれを味わい感謝を体験するだけでいいのですが、出てくるのはその感覚に対する執着です。この状態を維持したい、という欲求と、また失って元に戻ってしまったらいやだな、という恐れが顔を出します。古い課題はクリアしてきたわけですが、新たなステージに上がるとそこにはまた新たな課題が顔を出すわけです。

その葛藤はエネルギーを膠着させて、私たちを肉体感覚の意識のほうへ引き戻そうとします。それによって私たちはまんまと、なりたくなかった状態、つまり元に戻っちゃった感覚を体験します。けれどもそれは本当は戻っちゃったわけではなく、新しい状態に慣れるための新たな練習課題と言えます。私たちの肉体意識はこんなに調子のいい、或いは平安な状態に慣れていないので、幸せすぎてこわい、というふうに心が感知するわけです。そして肉体は再び警戒警報を発令します。そこには本当は敵はいません。心から古いパータンから抜けきれていないだけです。

心と身体が新しい自己(意識)に慣れるためには時間と体験が必要になります。この神の計らいは実に見事です。神はここで、緩やかな時空を私たちに与えます。心や肉体感覚で対処しない環境を与えてくれるのです。急がない、思考で組み立てない、できる限り自己の中心にいる時間を増やし、起こった最低限のことに、この状態のまま対処していく、というのがここでのレッスンになります。

いったいこのあとどうなるんだろう、どこまでこのようなことが続くんだろう、と、多くの人が考えると思いますが、この頃には古いカルマや自己意識の枠を外した体験があるので、本質の流れ、つまり魂の導きを信頼してついていくことにも多くの人は馴染んできています。ですからその流れに従っていくことは、小刻みにつまづくことは起こっても(実際何度もつまづくことでしょう)恐れをなして後へ引き下がることはもうないでしょう。以前より今のほうがずっといい、ということを知っているからです。

私たちは至近距離に迫っていた個の課題、家族の課題に恩赦を与えられ、神の優しい導きを体験し、もうひとりではなく、その大いなるものとともに歩む人生のことがわかってきます。同時に、以前の視点から見ていた、或いは想定していたことと事実とは随分違うな、と、多くの人が気づきます。過去の視点から覗く未来は一直線上に延長線を引いていく世界ですが、実際は、自分はどこにも移動していないし移動する必要もなかった、ただ、見通す感覚が変わり、見え方が変わり、感触が変わり、佇まいがかわり、捉え方が変わった。つまり自分が変わっただけなのだということがわかります。ですが、このことは同時に世界を変えたことになるのです。

新しい世界では私は何よりも、自分のことばかり考えなくなります。私って、私って、という心の声はすっかりきかれなくなります。これはどういうことかというと、私が私自身にうんとフィットしている感じです。本質と個がフィットして、一体感があるので、私って、という分離感がなくなっていくのです。私に対する意識は高まり、私を尊いものとして扱えるようになり、愛するようになります。自己意識が設けた枠がはずされ、よりあるがままでいることが可能になるのです。自由で、楽で、平安、という表現が合っているかもしれません。

古い視野では、解放された自分は望むような自分になることを達成している、というイメージかもしれません。しかしそのイメージは小さな枠の中にいる自分が今の不満を晴らすための願望が込められていますので、達成自体も人生においてはあまり意味のあるものではないと言えます。(小さな自己が)望む自分になるのではなく、本当の(真の)自分(我)になるのです。本当の自分がもしつまらなく退屈だったらどうしよう、そうではなく、私は私よりもっと素敵なものになりたい、と枠の中の小さな私は思います。その事自体が、自分をわかっていない証拠です。枠の中に入っているので本当の自分なんてまったく見えていないというわけなのです。ですから、その枠をはずして、想像もできなかったような本当の素晴らしい自分に出会えばいいのではないでしょうか。

その方法というのが瞑想です。そこで多くの人が、おっと、その瞑想とやらを習得しないと本当の自分にすらなれないというのか、いんちき臭い、と思うでしょう(小さい枠の中の私は以前そのように言いました)。もっと自然に生きてこそ、あるがままに近づくんじゃないの、と。でも、ただこの日常を一生懸命生きるだけで、自然に生きることにはならないのです。私たちがそもそも、幻想という煙にまかれて生きているのだという前提を私たちは知りません。生まれ落ちた瞬間からそうだから気づきません。これが、あの映画のマトリックスのからくりです。そこから出るにはわずかな違和感をスルーしないで嗅ぎとって、嘘を拒まなくてはなりません。嘘を拒むには、真実に慣れることが一番です。瞑想は私たちのうちにある真実に意図的に意識を向け、そこにいることです。ヨガナンダさんふうに言えば、内なる神に、愛を捧げに行くことです。その神をみつけることが人生の目的だとヨガナンダジはおっしゃいます。

彼はみつける、とおっしゃっていますが、実際はただみつけるだけではなく神とできる限り片時も離れずに一緒にいること、そのための技法がヨガだと師はおっしゃいます。

ところで、個のカルマをすっかり解放してしまうと、そこには空のスペースが生まれます。それで小さい枠の中にいる人はその自由を使って好き三昧に生きたい、などと願望するものです。ですが、実際に空になると、見通す世界は無限に広がり、世界中のカルマが透けて見えるようになるそうです。そして、導くことはもちろんですが、そのカルマを自身に引き受けることができるようになると。つまりカルマを解脱した人は私腹を肥やして贅沢をすることができるようになるわけでも、仕事でスペシャルに成功し、願望達成を自己実現だなとと言うこともなく、(それもカルマ。いいカルマと言われますが人生の目的ではありません)そういう外面的なことには影響を受けなくなり、世界中の人々のカルマを引き受けてあげられるようになる、ということです。ですから、成功しているふうなことをことさらに目標にする人や、それを幸せだと言って売り物にするような人の言うことには私は用心します。至福な人は神と一緒に仕事をし、生活をし、周囲を幸せにする人だと私は思っています。