いよいよ2012年が幕を引きます

みなさん、今年1年お疲れさまでした。明日で2012年という年も幕を引きます。

アセンションの時にふさわしい、すばらしい躍進の年でした。私の言う躍進というのはもちろん、意識の進化のことです。それから、神からの贈り物も数知れずありました。ここへ来てはっきりとわかったのは、新しい次元が確実に幕開けしたのだ、という真実でです。

社会は動いています。世界は日々変わっています。それはひとりひとりの意識によって形作られています。

一見いいことわるいことというものにはあまり意味がありません。ただ、私たちが真実に対して目を開いていくこと、つまり目覚めていくことだけが重要です。

少し個人的なご報告を、自分のメモを兼ねて書きます。

私の個人的な体験としては、家族を通して、過去に愛を隔てていたものの清算がものすごくはっきりした形で示されました。これについては自分でも驚きでした。父、母、弟、妹、という家族の一人一人とのつながりが完全にクリアになっていたことが形としてわかりました。これは人生での最高中の最高のギフトだったと思います。

それから、私の中の私、子供のころの美緒ちゃんを支えてくれた小学校のときの親友たちとの再会がありました。これは紛れもなく、すばらしい統合でした。小学校5年6年生の私というのはまるで、今の私の元祖みたいな存在であり、理想の私でもあります。その子が私の中に帰ってきてくれました。みんなの愛によって、そっと、最高に優しい形で、みんなの手によって磨かれ、帰されたのです。これは奇跡でした。そしてこれがすごいことには、居合わせたみんなも同時に「奇跡だ」と、奇跡を大勢で共有することができたのです。さらにこの奇跡は伝わりました。セッションにいらしてくださる方々が口々に「私もワクワクしました」「自分のことも思い出しました」とおっしゃってくださいました。私の小学校のクラス会での奇跡を皆さんのハートで共有してもらえたのです。すべてが奇跡でした。

それから、これはまた改めてしっかりとご報告とご案内をさせていただきますが、来月下旬にルーアは移転いたします。場所は南城市知念具志堅です。東南の海を臨む一軒家で、東方に神の島久高島があり、せーふぁーうたき、カフェくるくまや八風畑が近くにあります。くるくまから臨む海をもう少し間近に臨む場所になります。(豊崎では1月19日まで営業の予定です。よろしくお願いいたします。)

これはほんの1ヶ月2ヶ月くらい前から、神にリクエストをした結果です。もう少しオープンに人が集える場所、来てくださった方が居心地よく、地と地球、聖母のパワーを受け取っていただける場所、瞑想と祈りにふさわしい場所へと導いてください、と願ってからあっという間でした。もう少しゆっくりでもよかったんだけど、でも、だからといってこれよりいい道は想像がつかない、という状況でした。私たちはいつも、夫婦二人と聖霊とで大切なことを決めて実行します。沖縄へ来るときも二人で考え、聖霊に尋ねながら具体的なことを選んだり決めたりしました。誰にでもできることですが、「神よ、もしこのプランが魂の計画からそれているのであればどうぞ妨げてください」「私は神からの贈り物以外はなにひとつ受け取りません」と祈るというやり方はお勧めです。神の計画は本当はどれを選んでもどこを採っても実現します。でもこう願っておけば、カルマやエゴの思い込み、エゴの欲求によって突き進んでしまうことを回避でき、魂が私たちを導きやすくなります。

セッションを実際に体験してくださった方はお分かりと思いますが、人間が深く信じていること、本当に思っていることというのは普段考えていることと全然違っています。これはある程度体験し捉え方を訓練しないとわからないことです。魂の進路は私たちの思考からは判断できません。例えば私たちがなぜ沖縄に来たのか、というのは、やはり魂の意志だったとしか言いようがありません。来ると決めた時点で予測される利点とか目的とかもありません。イメージがあるだけです。それはもちろん明確ではありません。心の中では導きだけを信頼しています。導きというのはとても現実的に惹きつけられ動かされる感覚です。これまで持っていた概念や合理的な都合の良さを覆し、なお余りある魅力です。ですから、こういう意味かな、とか都合が合うな、タイミングがいいな、とかそういうことだけでは判断できません。困難を困難と思わせず、あたかも自然の理のように納得させるような働き、とでも言えるような感覚です。傍から見ればとんでもないことだったり難儀なことに見えても当人には当然だったり自然だったりすることです。ですが、重要な点は、いやおうなく巻き込まれると言うものではなく、自ら選ぶという点にあると思えます。導きを自ら選ぶ行為が尊いのではないかと思うのです。そうなっちゃったというのではなく自らそれを積極的に選ぶことで初めて信頼は培われます受け入れるべきなのはそれを選び行った、その結果です。結果困難だったり厳しい現実がやってきたとしてもそれを受け入れることがさらに信頼と実績になります。私たちは選び行い続けます。その基準や動機を「愛」や「神の創造」「魂の計画」と自分で決めるかどうかが重要です。いったんそうと決めたら迷わずそうなっているものとみなすことです。

前回、この豊崎に引っ越すときにもこのマンションを購入しました(それができたのもほとんど奇跡でした)が、そのときには誰にも計画を話しませんでした。両親に報告したのはすべてが完了してからだったと思います。しかし段々と私たちのやり方を信頼いただけるようになったこともあり今回は少し前に報告しました。どちらの両親もとても喜んでくれたのですが、「あんたたちって楽しいわね」「楽しみね、うんと楽しまなくちゃね」という言葉を双方の母からいただけたのがメッセージのように心に響きました。私たちはひたすら一歩一歩慎重にこつこつやっているだけなので、それはもちろんなにより幸せなのですが、両親が安心して、楽しむ心で見守ってくれているというのは、子供にとってなんと力になることだろうと思いました。それだけでいろいろなものを卒業できる思いがしました。

最後に、パートナーである風間真吾のすばらしさと輝きは増すばかりで、これは何よりのこの人生への贈り物であり、私の神への問いの応えだと思っています。彼の魂は沖縄という選択を「自己の人間としての成長に最適な場」として選び、日々その恩恵を受け取り感謝しています。それは彼が気づいたように、どこにいてもできることです。ですが、彼が自ら選んだということに意味があります。彼が感じたかった肌触り、感触、温もりや手ごたえをここが与えてくれています(もちろん私もです)。それは恩恵であると同時に自らの創造に責任をとることであり、それこそがスピリチュアルに生きる醍醐味です。すべてに責任をとるということは、自己の中にすべてがあるということに納得いかないことにはできません。そうでないうちは不平不満がわいてきます。多くの人が悪いものとして捉えている「怒り」というのはこの不平不満を怒りで表すことです。あらゆる責任を負うことができる準備ができると不平不満というものはなくなり、あってもそれを信じることができなくなり、浮かんでも消え去ってしまいます。ですからそれを怒りで表すことはできなくなります。代わりに怒りは理解や信頼や愛の表現の道具になります。スピリチュアルな生き方を苦手とする男性性を強く持つ男性が、スピリチュアルに生き、また積極的に変わることを受け入れる姿勢とその変化を間近に見ることのできる私はすばらしい体験を与えられています。

スピリチュアルを魔術だと思わないでください。それは、人間という生きた神秘を探求し、実際に主権を持って生きる生き方のことです。自分に愛を与える、愛する許可を与える、など翻訳された日本語にごまかされないでください。それは、見えざるもっとも崇高なものを求め、そうあるべく生きるよう決めることです。それは人間のあらゆる美点、叡智と賢さ、優しさと思いやり、勇気、想像力、感受性、共感能力、受容性、積極性などを求められる生き方であり、またそれらを個のものとして所有するのではなく、共有し分かち合う生き方です。だから、全部自分が持ってなくても、分けてもらえばいいのです。すべての持ち主は神ですから。

多くの方が貴重なお時間を割いて、この文字の多い記事をお読みくださり心に留めてくださることに感謝します。

私たちのひとりひとりのすべてが愛に満たされ愛を分かち合う世界を心から願い、2012年の幕引きに捧げます。
どうぞ祝福とともに新年をお迎えください。

アセンション前日に思う。これまでのまとめ。

今回の選挙結果には少なからずショックを受けました。政治についてこんなに真剣に願ったことはないほど、今回の結果が重要だと考えていたからです。311震災によって原発の事故が引き起こされてからこのかた、私は実際に起こっていることを見つける努力をしてきました。私にとってはスピリチュアルと社会は同じです。世界は内なる世界の投影です。

まず、原発事故が起こったときから世界はくっきりと二つに分かれていきました。これは情報をどのように受けとり意識にどう反映されるかによって、形作られました。もちろん元々あった傾向がより鮮明になったということです。原発事故を受けて、私が信頼できた情報とは放射能は人体に非常に危険で、これに迅速に誠実に対処すべきであり、このような事故は責任を追及し再発を防ぐよう取り組むべきものというとても当たり前に見えるものでした。これまでそのような社会で生きてきましたし、もちろん欺瞞や間違いは多くありますが、通常事故などに対して日本ではこのように取り組む努力を全体としてきたと思います。

当然このような意見を持ちそのように進もうとする人は周囲に大勢いました。同じ間違いを起こさないよう、今回のミスを認識して改善について考え、また今起こっていることに誠実に対処しようと努力するグループです。ところが、世の中全体を見回してみるとどうもそのようには動きませんでした。対極にあるのは放射能は危険じゃない、原発を止めてはならない、という意見です。そこで対立が起こりました。私にとって、放射能が危険ではない、原発を今までどおり動かそうという意見を理解するのには、今起こっていることとは別の事情を理解する必要がありました。それは簡単に言えば過去からのしがらみです。利権、お金儲け、権力争い、もちろん生活がかかっている人もたくさんいます。過去にそれらの恩恵にあずかっていたために、今本当の気持ちを言えない、ゆえに動けない人もたくさんいます。また過去からずっと存在していたおそれによって喚起され生きるというやり方の中にずっといた人はその傾向をますます強めることになりました。

この流れの上に今回の選挙がありました。すでに現在ではこれまでにないほどの前進の成果によって、脱原発という認識は広まっていました。テレビや大手新聞の報道が捻じ曲げられ隠蔽されている、要は政府によって情報操作されているという認識は、少し前には本当にごく少数の陰謀論者などと呼ばれる人だけのものでしたが、今では自ら進んで知ろうとするすべての人がほぼ必ず見つけることのできるものとなりました。隠されたゆがみを見つけるのがうれしいのは人間にとって自然なことです。毒を出せは健康になり、美しいものに触れれば豊かになるのが人間です。それで、前者のグループは、今どの程度この新しい視野と展望が浸透しているのかということがこの選挙に反映されるものだと期待しました。また今回は、脱原発などの根底にあるとても重要な基礎の部分の是非を問われる選挙でもありました。私個人としてはこの部分が最も重要でした。それが憲法を変えることついての部分です。

私が脱原発を考えるとき、何度も申し上げてきましたが、脱戦争が根幹にあります。70年戦争していない、憲法によって平和が宣言されている日本で脱戦争を訴えるのはおかしなことに見えたかもしれませんが、私の中では脱戦争がなければ脱原発はありえませんでした。つまり原発は戦争の道具だから、なのです。原発を死守する側には、戦争の道具を失ってはいけないという意図があるからです。水面下では刻々と戦争の準備が進められまた、日本以外のあちこちで起こっている戦争に、日本は(アメリカを通して)戦争に加担してしてきていました。それが今回、合法化されるかどうかという重要な局面だったということです。この流れは今回の選挙と首相の宣言を持ってもはや明るみに出たとも言えます。

多くの人は日本は戦争をしないんだから、というところに甘えてきたと思います。遠い国の戦争、紛争のニュースを見ても、かわいそう、信じられないわ、現代にこんなことがあるなんて、日本に生まれてよかった、と思うのはとても共感力のある部類の人の反応ではなかったでしょうか。でも、憲法が変われば私たちはこれらの遠い場所の戦争と直接繋がります。震災で多くの人の命を救った自衛隊の人々が、今度は国の命令で人の命を奪うのです。民間人や子供の命も奪ってしまうことが起こりえます。

原発が戦争の道具だという見方は一年前にはとんでも論的にみられていたかもしれません。でももう、今は違います。日本は軍隊を持つ、徴兵も視野に入れているということが国家の首相の口からテレビでも宣言されてしまいました。どれくらいの人がそのことをリアルにイメージしてきたでしょうか。また人権を尊重するという項目が憲法から除かれれば「子供たちの命を守りたい」「みんな大事な平等な命」という主張も、とんでも論の部類に入るようになるかもしれません。「何言っているんだ、命は国家のものだよ、国家にささげるものを自分のものみたいに言って」というのが軍事国家です。私たちはおじいちゃんの世代に戻ろうとしています。

今回の選挙でこういったことが民意である証拠となってしまいました。安倍さんは「憲法改正が民意なら、もっと簡単に民意が反映されるようにまず法律を変える」と言いました。だから懸念してきた人たちは本当にショックだったと思います。私もショックでした。今脱原発に尽力している人、お母さん方、原発を廃止しただけでは子供さんの命を守れなくなるかもしれません。脱原発を願うなら、今起こっていることを知って、隠されていることを知って、私たち自身の手でもう一度平和憲法を再獲得しなければならないでしょう。

今回の選挙は不正選挙だということがあちこちで言われています。私は猪瀬さん当確のニュースと、次の自民党ダントツの経過を見た瞬間にそう思いました。それから思い込みと希望的観測から導きだした考えではないかと自分の内面を検証した上で、この可能性は否めないし全体として見張るべきと判断しました。確証なんていいんです。確証というなら、実際に日本の憲法が変わり、軍隊を持ち、戦争をしている世界の国々と同列になって家族や友人が死んだとききっとわかるでしょう。それよりも前に別の選択をするためには、私たちは察知して、対応していかなくてはなりません。選挙の現場にいた人が感じた異変(証言はあります)、ちらちらとしっぽを見せるぼろ(ニュースに挙がっています)。こういうぼろを見逃さずにおかしいことをおかしいとちゃんと認識し、大切な人々に伝えていけば、事件はありのままをやがて見せてくれます。

さらに私が一番大事だと思うのは今回起こった結果すらも、真実への流れから決して外れていないということです。

私たちが今立っている局面とは過去にこれまで分離してきた二つの世界が統合へ向かっているという真実です。分離が統合するには、その分離が明らかにならなくてはなりません。もう分離したまま別々でいるなんて限界、というところまで来て、個々の意識の中でもういやだ、こんなことおかしい、私たちは理解しあい、愛し合いひとつになりたいだけなのに、という気づきがあって、世界は統合します。それが極端に引っ張られれば、反動として痛みがあります。痛みが少なくて済むには、私たちがこまめに気づくことなのです。そしてこまめに修正していくことなのです。地震が大地震にならないようにするには小さい地震によってプレートのずれをこまめに修正されるといいのと同じです。ですからこまめに気づいて自らを修正しているみなさんは決してがっかりする必要はありません。そのようにして世界のゆがみを癒しているからです。ですが、それは決してほっとけばなるようになるんだということとは違います。私たちは起こったことからどんどん気づいて反応し、軌道をいつも修正する、つまり癒す必要があります。(癒しについては前回の記事をご参照ください。)

スピリチュアルの教えの中に、アセンションについて降ろされた高次元の情報がたくさんあります。この情報はある次元では真実なのですが、自分自身がどんどん癒されて意識のフィルターをクリアにしておかないと、生きた概念として受け取ることができません。つまり活かせないし誤解するということです。地球がアセンションを選び地上のみんなが上昇する。その際世界は古い概念にしがみつく勢力と進んで上昇に身を委ねるグループに別れ世界は二つに分かれるという情報は耳にされたことがあると思います。それで、上昇する人たちは宇宙船で引き上げられたり瞬間移動をして世界を平行移動する、みたいなことをささやかれています。私は今日になってわかりましたが、これがもうすでに起こっていることです。世界は二つに分かれていたのです。日本は世界の雛形と言われていますが、これが日本で、世界中の人にとってもわかりやすい形で起こりました。それで、地球はもちろん前進し上昇していきますが私たちはどうすればいいでしょうか。受け入れるということは前回も書きましたが進んで感じきろう、つまり体験しようという姿勢のときに可能になります。感じきるのは痛みかもしれない。少なくとも意識の浄化に私と一緒に取り組んでくださった皆さんは、浄化の痛み、膿出しのときのいやなフィーリングを体験したり乗り越えたりしてきたはずです。でもそれを進んで受け入れ感じきってみると、そこには毒を出し切ったあとの清清しい愛、統合の世界があるのです。

アセンションで上昇を選ぶ人たちが引き上げられ別々の地球に分かれるというのは私は最善の策とは思えません。それは肉体の死をもって別のところでやり直すこととしか思えません。それは古い概念が物理次元で大きな破壊をしたときに、おそれなく別の次元に魂が進むためのガイダンスだと私は理解しています。まず何よりもそれでは統合にならないのです。地球がやむをえず再分離しましたということになります。とかげの尻尾切り的発想です。ここにはやはりキリスト教のノアの箱舟的な発想があるように見えます。私たちはどんなに悪条件だったとしても、統合、愛の次元に進まなくてはならないという魂のゲームに参加しています。そして一見悪条件に見えるものから愛を見つけ出すときに奇跡を体験するのです。

私たちは何であれ、体験し実感するためにこの次元に肉体を持ってやってきています。そのあらゆる体験の中から真実というエッセンスをいつも間違いなく見つけられるようになったらこのゲームは終わりです。真実というのは神であり光であり愛です。

アセンションにあたり、私たちはこれまで冒してきたひどい間違いから学ぶという姿勢から、気づきと赦しと手放すという神の愛による創造のやり方を選ぶ姿勢に移行します。このやり方によって人間はとうとう、長いこと言われてきた「私たちは神の子であり小さな神である」という領域に足を踏み入れることになるでしょう。アセンションには分離による解決などという3次元的な発想から目覚める入り口だったのだと、その日を前にして私は実感しています。地上で今を共有するすべての神の子たちと、共に目覚める目標以外にここにいる意味はありません。最後の1人までが幸せに目覚めるまで、私たちの旅は続きます。

私はここへきてあらゆるものに感謝しています。私はずっと以前から「政治が変わるのは最後」だと言ってきました。新しい概念が過半数の同意を得るというのはもうほぼ世界が変わった後のことです。でも今そうなろうとしています。そんな時代を見ることができるとは10年前には信じられなかったものです。それから私自身が個人の課題というものを概ねクリアして、社会や世界の膿出しという痛みに意識を向けられることができたことに感謝しています。10年前にはやはり想定できなかったことです。選挙の投票率が今回発表された通りだとしてもそれはありうることだと私は思います。それほどまだみんな幸せではないのです。幸せになるために投票する、というような建設的な考えができるのはとても幸せなことです。誰だって自分が不幸なときには社会を憎み世界を呪います。私は神だって恨んだくらいですから。だからできる人でやっていきましょう。社会の膿出しに参加するには自分の毒出しをある程度片付けなければできません。無理にしたら無理が来ます。ですから、自分を癒し、隣人を癒すことこそが、本当の近道なのです。家族間で原発のことを話し合えない人がたくさんいます。家族間ですらそうなのです。自分への愛、家族との愛、隣人との愛を体験してください。そうすればおのずと世界の平和のためにすべきことが見えてきます。

遠回りだと思っていたのにこんなに近道で早かった、と、癒された多くの方が私に伝えてくれます。その実感こそが世界を変えます。私は今日という日に心からの感謝を捧げます。

優しい人のための自分を愛する方法

よく戦争を終わらせるには心の内面の戦いを終わらせることだなんて言います。

温厚で優しい日本人はだから多分、怒っちゃいけない、すぐに反応しちゃいけない、と思うのだと思います。

反対を唱えることも、デモで訴えるのも、議論するのにもなんだか罪悪感があるし、いい反応が返ってこなかったとき傷つくし、そんな気持ちを感じるくらいなら黙ってよう、がまんしよう、という反応をする人は多いのではないでしょうか。

ざっくり例えてすみませんが、例えばアメリカ人だったら多分黙ってがまんすることのほうが無理がかかるから、言い返すしけんかする。だからアメリカ産のスピリチュアルは概ねまず「怒りを抑える」とこを教えている。

でもこれ、内面で行っていることは同じです。要は不満のエネルギーをどこにどのように出しているかの違いです。

黙ってがまんしているエネルギーは必ずなにかを攻撃しています。相手は自分自身だったり、自分よりも小さい弱いものだったり、またはその攻撃性をごまかすために食欲、性欲、出世欲、物欲などを満たそうとするとか、建設的なやり方だと、燃焼するためにスポーツに仕事に熱中するとか、別の楽しいことに意識をそらすとか、芸術などの創造に活かすとか・・・

この中でもとても発覚しづらいのが、自分自身を攻撃することです。これは一見誰にも迷惑をかけないし、問題が表面化するのには長い時間がかかることもある。でも、とても破壊力があります。

自分を攻撃するというのは、自分を裁くこととも言い換えられます。ですからこの傾向が強い人は無意識にいつでも正しくあろうと気をつけています。自己批判の力が強いので、他者からの批判にとても敏感です。間違っていなければ批判を避けることができますからいい子いい人で清く正しくあろうとします。感情をコントロール(本当のコントロールではなく、抑えて隠す)することがうまいので、周りとは問題を起こすことは少なくむしろ周囲からは歓迎され尊敬されうらやましがられたりするのですが、自分では自分を評価できません。摩擦に弱く、またいい人を保つために他者に踏み込むことも踏み込まれることもしないように防御しているので、他者と一緒にいるととても疲れます。そしてそういう自分にも罪悪感を感じてしまったりします。さらにこの緊張が進むと和らげるためになにかに依存します。多くはできるだけ他者に迷惑のかからないもの、食べ物とか恋愛とか、買い物とか、或いは仕事とかです。

以上は優しい日本人の攻撃のパターンの一例、という感じです。

さて、この裁きなのです。
特に知的で優しい日本人は普段から戦いをあまり好まないのですが、この裁きはとても好き(行いがち)です。

裁きというのは「何かと比べて優劣の価値判断を下す」ことです。ここでまた多くの人が価値判断を手放さなくちゃ、と思って、なんでもいいよいいよ、という風に流すというか通り過ぎればいいと考えます。つまり自分の心にかけない、感じないように、という対処をしようとします。見た瞬間気に入らないものが来たときにいきなりゆるさなくちゃ、と思うわけです。でもそれは、ただ頭でゆるさなくちゃ、と思うだけであって実際にゆるすことはできません。実はもう自分にとって不利、つまり価値がないと決めているから来る前に拒絶しているだけです。価値判断を手放すどころか、価値判断し続けているわけですね。

ものごとになんでも優劣をつけることのできる人が「違いのわかる優れた人間」という見方は私たちの中に常にあります。あれが美味しい、ということがわかることが、自分の価値、というようなことです。たくさんものを知っている人は価値がある、と言い換えると、そりゃそうじゃん、となるかもしれません。あの人は権力を持っている、お金を持っている、或いは仕事ができる、とかも、本質的には同じような価値基準から来ています。つまりすべてはなにかと比べて優れているということです。

自分への攻撃をしているとき、人は常に何かと比べて自分は劣っていると自分に訴え続けいるのであり、その立場が逆転するときには他者を攻撃すします。どちらにしても平和はありません。

私にこのことを気づかせてくれたのは「鏡の法則」でした。外界は内面の鏡だと思って世界を見ると、世界は競争、優劣のレッテルでいっぱいでした。しかもそれを見て必ず嫌な気分になるのです。おえっとなったりぎゅーんと胃がつぶれる感じがしたり、もやーっとした気持ち悪い、足元が危うくなる感覚が起こるのです。これを感じるときはつまり自分の中の攻撃性、劣等感、罪悪感、無価値感がうずいているのです。いたたまれない感じがして世界を嫌になるのです。でもそれは紛れもなく自分を嫌がって否定して攻撃しているときです。自分が気に入らず、ありのままを受け入れられません。

それで私の場合はそういうもやーが出てくるたびに中身を点検してそれを解析し手放すというしらみつぶし作戦をとりました。これは時間と手間がかかり、なおかつ余計に自分が嫌になってしまうというリスクがあります。でも私にとってはすばらしい取り組みでした。本当に内なる世界の状態が世界を彩っているということがいやおうなくわかりました。今はこの仕組みがはっきりとわかり、もっと的確でシンプルな方法を身につけています。

さて、戦争を終わらせるにはどうしたらいいでしょうか。

いくら平和を願い平和平和と謳ってもかないません。世界の平和ふうな所だけにフォーカスして平和ふうなところ以外を感じなくしても平和は創れません。戦争を終わらせるには裁きを終わらせることです。比較という価値判断を捨て、新しい、ほんものの価値を指針にすることです。

このほんものの価値というのが、愛です

裁きをやめるには、気づき、赦し、手放しが必要です。この気づき、赦し、手放しというのが癒しです。癒しには感じることが必要です。感じることなしに癒しはありません。拒絶を解き、進んで感じきろうという姿勢をとるとき、私たちはなんであれ受け入れています。受け入れ感じきったとき、そこには安らぎがあり、自由があります。癒しを起こすのは神のちから、つまり愛です。ですから私たちは愛というもっとも価値あるものによって、自分を癒す必要があります。ここに真の平和があります。