世界平和のために

本土の人間は知らないが、沖縄の人はみんな知っていること

今日は自分の頭の整理。

この本には、具体的で明確な情報が込められていた。検証するすべはないが、現在を把握し、世界を見通すための材料としてすばらしい。沖縄の基地のことを言うと「だって日本は戦争に負けたんだからしょうがない」という意見がみられる。でもそれは社会を勉強なさっている人の意見で、そんなの当たり前すぎて考えたこともないという人もたくさんいる。沖縄でもそういう意見を実際に聞いた。「そこに基地があったから」という意見。よくよく考えてみるとそのどちらの意見も過去の延長で今を無意識的に選択しているようにみえる。

でも実際は私たちの意識は無限の気づきによって支えられ無限に変化し続けている。起こったことを受け入れることと、過去の延長上の成り行きを選択し続けることは本質的に違っている。それは過去の因習によってされる無意識的、つまり適切な意図を欠いた行動と言える。人間にできる建設的な行動というのは、今起こっていることを意識と目を見開いて認識し、気づき、思い込みを手放し、開かれた意識の中でより真実を選択していくことだ。

私がこの本を読んで目からおっことしたウロコはたくさんあった。まずは、沖縄の基地の問題というのは今の世界が抱えているもっとも重要な病気の症状の一つだということ。今は原発という問題が日本にとってそうだが、それも元々同じ病気からくる症状だ。つまり、この病気の正体に気づいて処置しないと、どの症状も抑えることはできないだろうということがはっきりとわかった。

原発の問題をただ日本から追い出そうとがんばっても、それはかえって症状を隠蔽して治癒を遅らせることになるかもしれない。それほどにこの問題のねっこは深く大きな病巣を抱えている。

映画『誰も知らない基地のこと』を見たときには、衝撃の新事実はそこにはなかったが、より鮮明に明確に、その病巣が映し出されていた。

『誰も知らない基地のこと』で重要なのは、基地がこんなに危険でひどいとかそういうことではない。まず基地というものがどういう目的でどのような意図で存在しているのかということを問うことが重要だ。私たちはたまたまアメリカの基地がここにある、それはたまたま先の大戦でアメリカに負けたから、という風に認識しているかもしれない。でも実際は、「現在、世界の約40カ国に700箇所以上の米軍基地が存在する」。こんなことをしているのは世界広しと言えど、アメリカという国だけだ。アメリカ国家は戦争のプロであり、戦争ビジネスの独占的最大手企業だ。私たちは好むと好まざるとにかかわらず、その市場に乗っかって右へ左へ天へ地へと踊らされている格好だ。私たちというのは全世界を指している。つまり地球という星のすべて、未開発地を含む全世界とそこで暮す人類全体がこのビジネスの市場だということだ。

外交というのはこの戦争ビジネスの取引のことだ。抑止力という言葉がお好きな人も多いようだが、その抑止力というのが取引に関係している。世界の外交のベースは戦争を中心に成り立っていると言えると思う。

平和ボケってなんだろう。平和ボケのいけないところは平和に慣れていることではない。平和のありがたさを感じることができない状態のことだ。それをあたかも平和だと人間がだめになるかのような発言をする人が多いようにみえる。発散したい不平不満がそうさせるのだろうが、その状態こそが平和ボケだといえる。平和は尊い。平和というのは愛という最も神聖で強く無敵な波長の場をあらわす。平和ボケするのは、内側に平和がないために一見平和に見える世界に接点を見出せず無感覚になることだ。真の平和は私たち一人一人が気づき、目覚め、常に意図的に意識的に創造していかなくてはならない。

さて、この戦争ビジネスの要になるのが核保有だ。戦争ビジネスで、私たちの一見平和な日常とは無関係に頭の上を通り越して取引されていることがわかると、原子力発電と電力の発電はまったく関係がないということがわかる。だから、エネルギー問題を前向きに検討することは重要だけど、それと原発の撤廃はあまり関連がないということがわかる。国民感情としては関係しているが、電力と関連付けての啓蒙や説得では弱い。世の中では未だに原発は電力供給に必要だなどという意見があるが、必要ないよと伝えるより、まったく関係ないよ、というほうが力強い。それが真実だからだと思う。エネルギー問題はまた別の課題だ。少なくとも無意識に戦争に巻き込まれているうちにはエネルギー問題の解決に進むのが難しいのではないかと考える。なぜならエネルギーとは文字通り私たちの命を生かす源であり、すべての命がかけがえなく尊いという認識なしにはそれは結局奪い合う対象にしかならないからだ。戦争は端的にこのエネルギーと支配権の奪い合いだ。分かち合う生き方が社会基盤になるまで浸透するには、まだ多くの気づきと目覚めを必要とするだろうと考えられる。せめて同時進行で進みたいものだと思う。そのためにはまず関係性を明確にすることだろう。

いったん私たちの頭上で戦争が起これば、誰もが真実を口にすることすら罰せられ、すべての真実は合法的に隠蔽され封印される。そのことは先輩たちが体験済みの事実だ。知らないほうが幸せなどという言葉があるが、私たちが知らされないのは私たちの幸せのためではない。戦争に従事するビジネスマンの都合のためだ。そのことから自由にならない限りこの病は癒えることなく人類の意識の進化に立ちはだかるだろう。なぜなら戦争という問題は人類のサバイバルの問題と「人間という存在はなにか」という問題に起因してさえいるからだ。しかし裏返せば私たちがよりよく知るということは戦争ビジネスマンに都合が良くないということになる。そこが平和的な解決の糸口だと思う。

戦争や原子力の事故などによって人間が淘汰されるのを自然とみなす考えは、人間は若干悪知恵の働く野生動物だという世界観を容認する。悪知恵のおかげでその他の野生動物を制覇したのだが、その対象は野生動物にとどまらず、属すカテゴリーの違う人間に及ぶ。自分以外の人間全体に、及んでいる。

それに対して、人間は神の似姿に創られ、一人一人の内側には愛という中心的な意識があり、その愛という意識こそが自己を世界を創造し続け動かしているという世界観がある。実際に人間がよりよく生きるために、より幸せに生きるために必要なのは後者だ。

石原都知事になぜこんなにも支持者が多いのか推測した。彼は前者のパワーの支持者であり彼の言葉によって鼓舞されるのは力の強いものが勝つという希望だ。けれど彼の支持者のうちの多くは実際に自分が強いのかどうか知らない。本気で戦ったことのない人たちだろうと思う。あくまで類推だが、パワーゲームの体験者はその勝敗のどちら側にも真の勝者がいないことを知っていると思うからだ。

真の勝者とはすべてを救う道を探し、みつけ、実践する人だ。人間はまだまだこの道について浅い。まずは自分を知る。その中にすべての答えがある、というのは決して空想世界のことではなく、もっとも地に足のついた事実であり真実である。

生命の贈り物という、ゆるしの祈り

祈りの言葉は明確に私たちの意識全体に働きかける。どうして、と言われれば説明はちゃんとできるけれど、説明を聞いているよりも自分が行ってみたらちゃんとわかる。

けれど私の場合はカルマの重荷があまりに重たくしんどかったとき、祈りを口にするだけでも胸が張り裂けるほど辛かった。唱えていると恨みやら納得いかない思いやら許せない気持ちやらが噴出してくる。本に書いてあるように「良いフィーリング」を感じることなどこれっぽっちもできなかった。

しばらくしてどうにか読むことができるようになっても、読むたびになんというか、空気の塊みたいなものが喉にこみ上げてきては「うっ」となったり「おえっ」となったりする。また唱えている間だけ喉が切れるように痛むこともあった。感情的にはOKなのだけど現象は起こる。

今にして思えばこれくらい反応があること自体がすごい奇跡のようだ。ただ思いも込めず意味も考えず言葉を口にしているだけなのだから。それくらい「効く」のがこの祈りの言葉なのだ。

今だから言えるけれど、唱えるのが苦しくても、できる限り、自分をだましだましでもかまわないから唱え続けるといい。だましだましというのはエゴにはとても効く。例えば眠れないとき、押さえつけて自分を眠らせることは至難のわざだ。

SMAPの草薙くんが「眠れないときには自分をだます。ベッドに入らずにテレビでも見て、全然眠らなくても大丈夫なんだ、明日はゆっくりだし、というふりをして徐々にさりげなくベッドに近づいていって、眠気が来たらすかさず寝る」と言っていて感心した。エゴも真っ向から抑えつけると反発するが、なだめたりほめたりかわいがったりしながらだとわりと言うことを聞いてくれたりする。

祈りの言葉はこういった表面上のあれこれにかかわらずその奥に響き、その奥を活性してくれる。だから苦しんだり抵抗しながら行っても問題ないようだ。というか、潜在意識の記憶がエゴでがちがちになっているときこそその奥まで響く、高次元のバイブレーションが必要なのだ。そうでなければ私たちはいつまでたっても潜在意識の記憶が放つバイブレーションが引き寄せる、荒く重たい状況のスパイラルから自力で抜け出すことが難しい。

苦しみながら、怒りながら、どうして私がこんな目に遭うのだろうかと絶望に捉われながらの祈りにも、天と地とすべての聖なるものはその祈りに応じてくれた。今、感謝と平安の中で祈りを唱えることができることを心からありがたく思う。私はこの祈りが世界全体にそして地上の生きとし生けるものすべての内側に響き届けられることを願うことができることに感謝する。私の瀕死の祈りが届けられたのはきっとそのときにも私のようなもののために祈ってくれた見知らぬ魂の仲間が存在していたからに違いないと、先ほど思った。だから今日は、今祈ることも苦しい魂の友人たちのために祈る。

祈りの言葉の一部をみなさんにもシェアします。

◆祖先のための祈り

主よ、私自身のために、私の配偶者のために、私たちの家族全員のために、私たちの関係のすべてのために、私たちの祖先全員のために、あらゆる時までさかのぼる祖先のすべての関係のために、お願いします。

主よ、私たちが皆、完全にそして完璧にゆるすことができますように、完全にそして完璧にゆるしてもらうことができますように、完全にそして完璧に自分自身をゆるすことができますように、どうぞ力をお貸しください。主よ、どうぞお願いします。主よ、感謝します。(3回繰り返す)

主よ、私たち一人一人をあなたの愛で満たしてください。私たち一人一人に、完全な安らぎをお与えください。今、このときに、そして永遠に。主よ、どうぞお願いします。主よ、感謝します。(3回繰り返す)

主よ、あなたの愛に感謝します。あなたの祝福に感謝します。あなたが毎日与えてくださる、生命の贈り物と、数多くの贈り物に感謝します。主よ、感謝します。主よ、感謝します。主よ、感謝します。(3回繰り返す)

アーメン。


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クリスチャンのための祈りのように見えますがそうではありません。「主よ」に違和感がある方は神、宇宙意識、真我、根源なるパワー、大いなるもの、なんでもかまいません。アーメンはオウムと同じ、偏在する神の光を祝福し活性する言葉です。
すべての人の内側に祝福が届けられますように。

世界の神聖といわれる場所

世界中の何かひとつにでも神聖さを感じることができるのではれば、その神聖さがすべての人の内側にあることはいづれ理解されるだろう。すべての人の内側にあるその神聖さを敬うことができたら世界は変わるだろう。たとえ今その神聖さがすべての中にはっきりと見えなくてもあると信頼して敬ってみるとやはり同じことが起こる。それが真実だからだ。

神聖さを愛と置き換えても同じことが言える。

私たち人間はこの真実を人生を通して学んでいるのだと思うのだが、言葉で言うこの3行余りの真実に私たちはなかなか気づくことができない。一人の人生全部を費やしたとしてもこの真実を生きるにはなかなか至らない。それで幾世にもわたって私たちは魂の旅を続けていると考えられている。

この言葉はまったく逆さの真実も含んでいる。世界中の神聖さを敬ったところで、自己の内に神聖さを見つけられないならその神聖さと敬いはまやかしにすぎない。世界は神聖さと醜さ、神聖さと闇、神聖さと愚かさでいつも分離しその分離という地獄から私たちは逃れることはできない。

あそこにあってここにはない。誰かにあって他者にはない。他者にはあって自分にないのであれば、私たちはどこまで行っても満ち足りることはないだろう。けれど、自分の中の神聖さを見つけたとき、それは自分だけのものではないといづれわかる。その神聖さの本質が巨大で無限でどこまでもひとつなるものだという体験をし続けることになるからだ。

世界を平和から遠ざけるものの正体はさほど難しいものではないということが最近よくわかる。それはいかなる動機かられあれ「他者と自分は違っているという意識」だ。エゴにフォーカスをすればすべてはみな違っている。しかしそのエゴの衣の奥にある神聖さを見つけたときその幻想は終わる。

あれが悪いこれが間違いだというのは善意であれ悪意からであれ結局は世界を分離させる。私たちは常に鏡を見せられている。内面のエゴの領域を世界という鏡に映して。その鏡から自ら進んで自己の目隠しをとることを学ばないうちはそのレッスンは続く。そこから学ぶことは他でもない、この間違いだらけに見える世界と自己のその内にこそ、もっとも神聖なものが横たわるという真実だ。

自己を愛し尊ぶことを知っている人は、他者と世界を同時に愛し尊ぶようになる。そこには平和がある。