世を照らす光であるみなさんへ

新年あけましておめでとうございます。
みなさんと世界に、そして私自身に、常に新しい喜びの風が吹きますように。

年末年始に2泊3日の旅行に行きました。
沖縄へ来てからは長い旅をしているようで、また日常が新鮮な冒険のようでもあり、非日常を渇望するようなことが極度に減っていましたが、わが家のエネルギーの流れに従い今回新しい選択をしてみました。

場所は長崎。夫婦ともに初体験です。
歴史の町でもあり、宗教の町でもあり、被爆の地でもあり、事前に瞑想してみてもぐるんぐるんと渦が巻き、うまくつながれないなと思っていたのですが、現地に行ってみるとどうやら、つながった結果のぐるんぐるんだったのだと納得しました。

訪ねたい場所となるとどうしても神社仏閣中心となります。今回受け取ったメッセージも学びも本当にてんこ盛りだったのですが、もっとも印象に残ったことをまずは書いておきたいと思います。

3日目の朝、たくさんの唐寺を見逃さんと出かけたはずが最初に到着したのは二十六聖人殉教の記念碑がある西坂公園でした。併設の記念館はお正月休みで入ることができなかったのですが、表の壁にあったコルベ神父の言葉「愛は死よりもつよし」という言葉。その思いに呼ばれた気がしました。

その言葉は何度も目にしたことがあったにも関わらず、今回初めてまったく違う意味に受け取ることができました。

愛は死よりもつよし。みなさんはどんな印象や思いを感じられるでしょうか。

以前の自分には、悲壮、壮絶のような直進的なイメージを即座に想起させました。

しかし今回その言葉はただ「人間とは霊(スピリット)であり、肉体の死を超える」という、真実そのものをあらわす言葉だったのだと感じたのです。そのことを人間らしい血肉の通った言葉にしたなんというシンプルな表現なのだ、と。

親愛なるパラマハンサ・ヨガナンダの弟子であるスリ・ダヤ・マタの著書「愛だけが」から、その強いメッセージに対するレスポンスを受け取りましたのでみなさんにお伝えしたいと思います。

「肉体はまちがいなく、魂をおおう外套にすぎません。もしオーバーコートがボロボロ、よれよれになっても、ふつうはそのことを深く悲しむことはないでしょう。・・・魂が一時的に身につけている、肉体というコートが自分であるとみなすことを、意識に許してはいけません。」

「神のやり方を理解しない人々は、霊的な完成とは肉体の完成であるから、神と調和した人の肉体は病気にならないという考えをいだいていることがよくあります。そんなことはありません!この概念を捨てない人は、自分が肉体に執着しているのです。」

「肉体にほどほどの手入れをすることが間違っていると言っているのではありません。・・・肉体に必要なものを与えて、あとは忘れなさい。・・・必要とあれば苦しみをとおしてでも私たちを目覚めさせようとして、肉体に病気や欠陥があらわれるのを神がお許しになるのは、私たちが神の子であり、死すべき肉体ではないこと、また、この世界は私たちの家ではないことを気づかせるためなのです。私たちは不滅の魂であり、私たちの家は神の内にあります。」

神に祈るとき、私たちがほしいものだけをもらおうとするのか、それとも私たちの心そのものを捧げ、究極に最上のもの、神の愛そのものを受け取るのか、その違いが世界を大きく違えていくように思います。

世界をすばらしく変えるためにまず自分が変わるという選択は、後者の道への入り口なのだと改めて心に刻む、そんな新年を迎えております。みなさんの内側にともる光りが世界を明るく照らす、前進の一年になりますように。

神に触れる

みなさんこんにちは。投稿久しぶりになりました。先週末は定休日にプラス2日のおやすみをいただき、夫婦と夫の母と3人で長野へ行ってまいりました。長野は私の父の故郷でもあり、夫の風間家の古いルーツでもあり、ご縁を感じています。

旅のテーマは諏訪大社と風間氏発祥である風間神社の巡礼でした。夫の往診先のおばあにおやすみをいただくときに理由をお話すると、おばあは「先生はえらいさー」と言って褒めてくださり「どここどでこういう仕事をしています、と、神さまにちゃんと言ったらいいさー」と教えてくださったそうです。

旅はのっけからおもしろいことだらけでしたが、話が長くなってしまいますのでまた今度ということにして、帰ってきて感じたことですが、やっぱり瞑想とこういった巡礼は別ものでした。どういうことかというと、旅の刺激で頭の中がわんわんしてしまい、落ち着くためにはどうしても瞑想が必要でした。神さまに触れ合いに聖地へ赴いたのですが、神さまを感じるには圧倒的に静けさが必要だということでしょう。数回瞑想するうちに内面は静まり、肉体の疲れもそれとともに癒えていきました。

巡礼というのはそれそのものが自分へのご褒美ですね。神とのつながりというのは普段の生活の中にあるものだとしみじみ思いました。

さて、人間にとっての神さまってなんなのでしょう。神さまが人間に望むことってなんでしょう。

いろいろな側面があり表現があると思いますが、どんな場合にも私は一番に「人間のしあわせ」だと思います。神さまは人間のしあわせだけを望んでいると思います。

人間とはとても複雑で高度な仕組みを持ちながら生きています(神に似せて創られたと言われるほど)ので、しあわせになることは一筋縄ではいきません。だから、神は私たち世界の背後に遍在し、私たちを常に内面(意識)から導きます。

私たちは人生ゲームの最中、どんなに必死になってもはっと我に返って「神さま、私のこのゲームはあなたのご意志にかなっていますか」と問いかけることが許されています。そしてそのルールを採用したとき神さまは必ず応えてくれることになっています。

私たちはついつい、ゲームをプレイしているのはわたしであって、その全責任は自分だしその成果も自分だけのもの、と勘違いしてしまいます。しかし、人生のゲームは常に神さまとのチームプレイです。そしてこの物質界に出現してくる以前の水面下で、ほとんどすべての段取りや設定を、私たちの自由意志が非常に尊重されるかたちで整えてもらっています。

私たちが自分という存在をよく見てよく感じてよく知り、そしてその本質に沿った選択ができたとき、神のちからは最大限に私たちと一体化できます。なぜなら私たちの本質と神の特性がひとつだからです。

「自分のしあわせってなんだろう」
このことをどうぞ追い求めてください。その問いとその追及こそが、神が私たちに歩んでほしい道です。そして何度も本質から逸れながらもあきらめずに求めれば、おのずとその答えに出会うことができます。

「しあわせ」についての様々な誤解がこの世にはあります。インナーチャイルドを探求することの目的もここにあります。過去世を探求することの目的もここにあります。ハイヤーセルフを探求することも、チャネリングをすることも、宇宙と真理の探究をすることも、すべてここにあります。

人ひとりの想念にも、社会的な通念にも、そして世界の在り方のの中にも、しあわせについての誤解が満ちています。私たちはその誤解の存在に気づき、そしてその誤解に慣らされてしまった自己の洗脳を解き、そして本質という光りであり愛であるものに出会い感じること。魂は私たちにそれを求めています。神とその愛は私たちにそれを求めています。

私が人生を通して体験した神はそれです。

すべての人に用意されているギフト

私自身にとって、真の救いとは、すべての人が多種多様な側面を持ちながらもまったく同じ存在であるというところだ。内なる神について話すのは、それがすべての人のものでありひとつであるからだ。

パラマハンサ・ヨガナンダに圧倒的に惹かれるところは、師がそのことを世に、ひとりひとりに伝えることに人生をかけた人だからだ。

ヨガナンダが宗教という言葉を使ったとしても、それは既存の意味とは違っている。また彼が教祖のように見えてもそれも違っている。

彼は「私は私の中に神をみつけました。あなたにもそれができます。やってごらんなさい」と常に私たちに呼びかける。私を敬いなさいとは決して言わない。「私が神を愛するように、あなたも神を愛してごらんなさい。神は私に応えてくださったようにあなたにも応えてくださいます。私は幸せです。あなたもにもなれます。」と言う。彼は人類への奉仕者であり、仕えられる存在ではない。

私は暗闇の中にいたころ、そのように言える人になりたいと心から願った。まだ自分の中に神がいることすら知らなかったときから。その願いが伝わり、私はそっと導かれ続けたのだと思う。

そっと過ぎて、長い間私はそのことに気づいていなかったが。

内なる神の話をし、それを信頼する生き方を始めても、自分がすぐにその神の真実を知ることはできない。どうにか自己の中の神を信頼しかけても、今度は、他者の中の神をみつけることへの壁が来る。

しばしば起こることだが、「私には神がいます。あの人には本当にいますか?(ちょっと信じがたい)」「私にもあの人にも神がいます。でもその神は別々の神です。」という認識が、無意識に自分の中に生きている。

もしその神が別々の神なのだとしたら、それは神ではない。それこそが悪魔と言われるものなのかもしれない。

神が分離していて対立したり、利害のために対立するものを後押ししたり、或いは罪を罰したりする存在であるなら、それはただ、人間のエゴの想念が拡大したものだと思う。(なるほど、それはやはり悪魔かもしれない)

内なる神とは、意識という本質のなかの最高次元の場のことも言える。それはすべてをひとつにする。対立するものの存在しない次元だ。

それを私たちが求めることに意味がある。

神が別々であるということはあり得ない。だから神なのだ。

だから、私たちはどのような壁からも解放されることが可能なのだ。

この世はない。神はある。

エゴは別々である。しかしそれは過ぎ去る幻想である。神は永遠に、無限にある。

それだから、私たちはすべてを超えて、わかり合うことができ、赦すことができ、ひとつになることができる。

それが、宇宙という生命を包括する。拡大し続けるという不可思議な活動を可能にする。

そしてそのことだけが、私の心に平安を与える。

分離、対立、偏った考え、利己的な思い、私欲は、私たちを刺激し駆り立てる。それを生命の営みというならこの世は地獄。天国はその対極ではなく、それを拒否するところに存在する。

どうしようもなくわかり合えないあなたと私の神はひとつである。その神は求めることにより与えられる。

私は求める。それがどうにも見えてこないゴールであっても。それに悲しみや苛立ちを感じることを私は私に許そう。

そしてその悲しみや苛立ちのすべてを神に捧げる。小さき私に神は喜んで慈悲と慰めを与えてくれるだろう。

無条件の愛とはそういった寛容のことだ。

神は寛容である。神はあなたの小さな間違いにいちいち罰を与えるどころか、その間違いをすべて赦し、余りあるほどに与える。

私たちがこの世の法則によって利益を求めるのか、神そのものを求めるのか、ただそれだけの違いだ。

多くの人が神からのご褒美を待っている。あるいは罰を恐れている。そのこと自体が神への誤解だと思う。神はただ、愛されることを待っている。あなたが愛することによって、神は応えることができる。神は愛そのものだから。

私たちの問題の答えは、愛すること、愛し始めることによって、すべて解決される、というのが私の中に与えられた答えだ。その答えをひとつひとつ実践すること、それが人生なのだとわかった。

過去に抱いた幻想から、私は愛をなにか別のものと錯覚している。その錯覚から覚め、現実に戻る道。それが神とともに生きることなのだと思っている。