平安が好きですか?

平安、という言葉。

瞑想をするまでまったく興味も好意も持てない言葉だった。

クライアントさんに意識の仕組みをお話していて、平安という言葉を使うと「ああ、いいですねえ」と返されることがよくある。

「平安がいいです。」
そうですか?!では話が早い、と私は思う。実際にそうお答えする。

これは多分、私の母の価値観の影響だと思う。幼少期の激動の戦後体験によっておそらく、強烈なものごとでなければ埋め合わせられないほどの、心の傷を負ったのだろうと推測する。

私は自分の人生と向き合い始めた頃、これはまさしく不幸の連鎖の輪にがっちりとはまっているとわかった。不幸になりたいわけではない。でも幸せそうな香りを嗅いでもうまそうに思えたためしがなかった。

不満と反骨精神、ためと爆発は自分の原動力だった。それらは自分の敏感さからくる繊細さや臆病さを補ってくれる。

100%正直であるためには、全部晒すか全部閉じるかしか方法がなかった。ほどほど、まずまず、なかなか、まあまあ、なあなあなどと、ダメ、との違いが全くわからなかった。それらはダメ、の言い換えに過ぎないとしか感じられなかった。

母が平穏無事という言葉と価値観を軽蔑していたのを覚えている。
「平穏な道と困難な道があったら私は困難な道を選ぼうと、中学生で心に決めたの」と「風と共に去りぬ」のスカーレットのイメージを重ねて私によく語っていた。

そういうものがたりを当たり前のように、良いこととして私は受け取っていた。母のものさしはなによりもクールだと当たり前に思っていたし、そういう母にあっぱれと思ってもらえるような人間になろうと当たり前に思っていた。そしてそれは多分困難な道なんだろうけれど、自分はできると、そう思っていた。

成人して自立して歩き始めたところで私はあっという間につまづいてしまった。その困難にどれだけ全力で立ち向かってもなにひとつうまくいかなかった。うまくやることもできないし、できない自分の姿がみじめでみすぼらしくてとてもじゃないけれど受け入れることができなかった。母の望む、クールでスマートでスケールが大きくて常にトップクラスの自分というイメージはもう自分の中にはひと欠片も見当たらなかった。

そこで過去にみあった自分を諦めて、軌道修正できればどれだけいいか。しかしそこがインナーチャイルドの仕組みである。幼少期に刷り込まれた自己像はそう簡単に変えられない。自分の場合はどちらかと言えば幼少期のできた自分の延長を生きることが自分のミッションだと信じこんでいたので、現状の結果の出せなさとの闘いにしがみついて膠着してしまっていた。自分は親からすばらしい資質を与えられたという自覚がずっとあったので、親にも、家族みんなにも、それから子供の頃の自分にすら申し訳ない気持ちでいっぱいだった。

ここまで膠着してしまうと、もう何も見えなくなる。見栄えのいい結果を出すこと以外に不幸の連鎖の輪から抜け出す方法はないと思い込んでいる。自分のことしか考えられないのに、自分のことをまるで見ていないのだ。自分の出す結果のほうだけ凝視している。

その結果も、ほどほど、まずまず、なかなか、まあまあ、などというものでは当然ながら許すことができない。ずば抜けるしか、輪を打ち砕く方法はない。平安などという生ぬるい状態は、あっという間に私を不幸の連鎖の輪に引き戻すに違いない。私に必要なのは、曖昧さのない結果だけだと、そう思っていた。

答えのみつからないままもがき続け、どうやらこの延長上に私の求めるものはないのだろうということだけがなんとなくわかってきた。行きたい方角などまるで見えなかったけれど。

平安というものがどうやら最良のものなのだということを受け入れるようになったのはそれから更にずっと後のことだ。平安というのはなにかとなにかの間に存在するぬるいすき間のようなものでは決してない。

それは絶対的な中心であり、なにかとなにかの間にはない。相対的ではなく、他と並列にできるものでも比較できるものでもない。絶対的な中心なのだ。

絶対的な中心には、それだけが存在する。そこへ行ってしまえばその他のことごとは消えてしまう。そうでなければそれは並列に存在できるし、ものごとの合間に存在していることになる。

平安にいるとき、私たちは正気になって目覚めている。真実がわかっている。

真実というのは、実在していないものを無いとわかっているということだ。

実在していないものを無いとわかり、実在しているものをあるとわかっているとき、私たちは安らぐ。だから平安は実在している。恐れているとき、そこに平安は無い。つまりは恐れとは実在ではないのだ。

このことは瞑想だけが教えてくれる。観念のことではなく、実際のことだ。思考には絶対に理解できない。思考を放棄したものだけがそれを知る。瞑想は思考を放棄する。

平安だけがすべてを解決する。その他のものは解決に見せかけたゲームに過ぎない。ゴールしたと思うとスタートラインに立っている。

平安は奇跡を起こす。時間を縮め、緩め、つながるべきをつなげ、手放すべきを解き放ち、闇を照らす。

つまりそれは、神の場をあらわしてる。平安がいいですとおっしゃってくださるみなさんはそのすぐそばにおられると私は思う。

愛をつかむ

愛って、実感したことも体験したこともない気がします。まったく雲をつかむような感じがして・・・

セッションでいただいた言葉なんですが、「愛」という言葉に対する感じ方は本当に多様で多くの方からいただく疑問でもあります。

私事ですが、だいぶ近年になってから母に「私って結局なにも愛してこなかったのかもしれない」と告白されて衝撃を受けたことがあります。子供にとってはびっくりですよね。え、愛されてなかったのか!(笑)

以前はなるべく神と愛というワードを使わないで説明できるように努めていたこともありましたが、今ではむしろ多用しています。それなしに始まらないという世界の仕組みがよくわかったらです。

愛はすべてです。ゆえに神もすべてです。人間の愛には情や考えが入り込み、そういうつもりはなくてもいつも制限を加えます。でも純粋な愛には制限がありません。

私たちがいくら無垢で愛そのものでいようとしても、そこには必ず恐れという曇りがかぶさっています。私たちはおひさまを直接凝視できません。神とは何か、愛とは何かを考えるというのはおひさまを凝視して正体を確かめようとするのに似ています。ただそれだけを見ても眩しくて目が痛いだけです。

でも、おひさまが照ったときの空気や風や緑や海や街並み、そしてそれらに触れたときの自分の気分や感覚は味わうことができます。優しい、きれい、柔らかい、力強い、新鮮さ、細やかさ、満ちている感じ・・・感じ方はさまざまでも、それらが私たちに与えてくれるエネルギーがあります。

また、実際にもっと全体の仕組みを知れば、おひさまなしにわたしたち生命が生きられないということもわかります。おひさまが生きとし生けるものをどのようにして生かしているかというのはただ生まれて生きているだけでは実感しにくいものですが、理解や洞察が深まるほど、世界が奇跡的なつながりのなかで保たれていることがわかります。

しかし宇宙は生物の王国ではありません。無生物と言われるもの、石や土、火が星を作りその星々は一定の秩序の中に暮らしています。無生物のものにもまるで意志があるかのように、始まりと終わりという寿命のなかに生きています。おひさまが源ではなく、さらにすべてを生かしているなにかがそこにあります。わたしたちはそんな世界で暮らしています。

そんな大宇宙があり、私たちのからだのような小宇宙があります。生物無生物に関わらずそこに秩序と法則を生み出し統制している力があります。

それは私たちの思惑が生み出すストーリーや欲求が生み出す必然とは違ったリズムです。自然界に心を合わせると私たちは少し自由になれるかもしれません。しかし私たちは自然界からもらうばかりの生き物ではありません。自然界をリードできるように与えられた知性を持ちます。

知性によって私たちは本能やサバイバルの能力を補ってきたかもしれませんが、それはただ得るために授かった能力ではないのです。それは、全体の仕組みと自分の内側にある仕組みを理解するほどに実感できるようになります。

私たちは自分を知るほどにその能力のパワーと、使い道についてさらに知るようになります。

多くの人が自然という言葉を人間以外の動植物や景色にあてがって使います。しかし、私たちこそが自然です。私たちはすべてとつながっています。そのことを思い出ししっかりとつながり直すことが必要です。

全体を理解するというのはそういうことです。そしてそれとどのようにつきあっていけばいいのか、生きていけばいいのかは、自分を理解することでわかります。

すべての背後にあるもの、それが神でありその息吹である愛です。

ですから私たちが頭で作り出した、経験による推測に過ぎない因果関係よりも圧倒的に、愛の法が大きく強いのです。私がこうすればあの人はこうするだろう、あの人がこうしたから私はこうなってしまった、それが潜在意識の世界、つまり習慣の世界です。

しかし目を開けば、そんな因果律を超越した本物の法則があります。それは本物の自然であり今ここに、そして永遠にそこにあります。

インナーチャイルドの真実

この世に生まれた赤ちゃんの最初の世界。
父と母という神の原型が、家庭という世界を築いていて、まずは自分の居場所と安全を確認する。

赤ちゃんによっては先にもう少し大きい住人がいることもある。
もっとたくさんいることもある。
沖縄へ来て驚いたのは、何人ものおとな(たとえば親戚のおじさんおばさん)が同じ王国に暮らしていたケースなどが意外と多いこと。

でも、大国の創造者であり自分のいのちを直接養う神はお母さん、そしてお父さんだ。

自分の居場所、それは「神々に歓迎されているかどうか」そして安全は「神々が友好的に平和を保っているかどうか」だ。
「歓迎されているかどうか」は「自分は愛されているかどうか」そして「友好的に平和かどうか」は「お父さんとお母さんは愛し合っているかどうか」と言い換えることができる。

赤ちゃんにとっての愛情確認は死活問題だ。

潜在意識(インナーチャイルド)の成り立ちと仕組み、作用の説明をこれまで何度繰り返してきただろう。何度も何度も繰り返し理解を求めているうちに自分の内側から真実がぽつぽつと浮かび上がってくるようになった。こういうのを降りてくるというのだろうけれど、降りてくるというような突発的で不安定な感覚ではない。

たとえばやかんのなかでいったんお湯が沸いたらそのあとは定期的にぼこぼこと水蒸気の泡が上がってくる。この泡を捉えるのだ。水である時の水蒸気は目に見えない。たとえ見えなくても空気中にそれは気体として上がってはいる。この水蒸気を見ようとするのがよくあるスピリチュアル風なやつで、見える人には見えるし見えない人にとってそれはオカルト的だ。

しかし瞑想を継続的に行って自己意識の浄化(既成概念の見直し)をして自分の波動を上げていくと水温が上がり、沸点がくる。そこから水蒸気を捉えるのは普通のことになる。見えるし聞こえるし、普通に実態があるのだ。

話を戻す。
前回の記事にも人間は弱いとかサバイバルに不利だと書いた。確かに知性はずば抜けているが、愛が伴わないと自滅すると。思いやりという裏打ちがない文明は、いづれ他者を倒すとか勝つとか、そんなことのために用いられるだろう。それが生き物の第一の本能だからだ。オオカミやライオンは自分の足と牙で適う相手を探すけれど、人間の知性はもっと多くに優る。知性の発達と愛の深化は、生き物としての人間にとっても不可分なのだろうと思う。

人間の潜在意識が3才くらいまでに最大の発達期を迎え、その後の変化はとても緩やか。13才ほどでその発達は収束してしまうとされる。私が面白いと思うのは、その発達期に人間という生き物が、肉体的には文字通りお母さんにおんぶにだっこだということだ。知性、意識ばかりが発達して肉体のほうは自立しない。そのアンバランスは人間という生体にとってそれが必要で重要だからなのだろうと思った。

人間の特質は圧倒的に知性だ。それと不可分なのが、情緒と言われるもの、感情、共感、そして愛なのだと思う。それなしに人間は生き残れない。知性は自立できない。破壊力はいつか自己を含む同種に向かい自滅するはずだ。賢者が長いこと警告し続けてきたのは寓話的な発想ではなく、人間の仕組み、原理そのものから解析した真実なのだと強く思う。 

人間は3才までに、お母さんにつきっきりの愛情を求める。目を離さないで、ずっと見ていてほしい。これはすべてのインナーチャイルドの根源的な欲求だと思う。そこには身の安全を図る「本能」と、愛情を求める「情緒」が入り混じっている。これが人間という生き物の原点なのだ。

心の問題と言われているものは、すべて愛情の不足だなどと言われる。その言葉を聞いて憤慨する人もいる。愛情不足をお母さんの努力不足、能力不足と混同すべきではない。愛というのは数字のように過不足を測れないものだ。だから私たちはそれについて一生かけて、いや、数千の輪廻を超えて学んでいるのだ。

愛はそもそも誰にも不足している。それがインナーチャイルドを探求してきた私の感想だ。完全な愛を知るまでそれは続く。完全な愛を神と呼ぶことができる。私たちの魂はそのための旅をしている。しかし新しく生まれてきた肉体のほうは知る由もない。そこでボタンの掛け違いが起こる。魂の求める愛を、肉体のほうはお母さんに求めるのだ。完全な愛を。

魂を主体に世界を観ると、インナーチャイルドの抱える欠損こそが、人間が魂の任務を遂行するための仕掛けなのではと思う。お母さんの愛が至上であったらその人はそれを超えることを求めるだろうか。自分が渇望するものを、人にも与えようと努力するだろうか。

いづれにしても、インナーチャイルドの問題を扱うとき、魂つまり超意識以上の観点を持たない限り、必ず限界の壁に当たる。それが私の得た真実だ。潜在意識を補修すれば「人並み(か、それ以上)の生活できる」という世界観から抜け出せない。前回書いた通り、暗雲が晴れる快感のために不幸を体験するというループ以上の喜びが見えない。

そうなると、欠損を作り出したのはお母さんの過失であり、それを赦すには我慢するしかない。欠損を抱えながらこの世を生きるのは不利であり、自分が過失を起こさないためには「子供にしてはいけないことリスト」を遂行することが子育てに必須になる。自分への愛などあとまわしだ。

この分野はまだまだ発展中だ。暗雲を一度すり抜けたことでセラピーばんざい、という気分になりセラピストを目指し実際行っている人も多いと思う。その中にもちろん真実はある。ただ、それで全部だと思わないでほしい。

自分の人生には多くの体験が与えられた。そこから得たものを伝えることは一つの使命だと思う。しかし体験から本当に大事なことを言葉やかたちで伝えるという作業は本当に骨が折れるものだ。私は伝えきれない多くを意識の海に記録していく。誰かが瞑想によってそれをすくいだして活用してくれるだろう。私が与えてもらったように。