超人のすがた

「私たちの真の強さは自己の明け渡しからくる」
これは敬愛するスリ・ダヤ・マタさんの言葉。

そう聞くと、誰にでも何にでも従順に言いなりなイメージを持つ方もいるかもしれませんが、
もちろんそうではありません。
明け渡す相手は神しかありません。

「夜も昼も、何をしていても、心の背後で常に神のことを考えているようになるまで、あなたの心のすべて、思いのすべて、魂のすべてで、神を深く愛してください。」

究極、瞑想を何のためにするかと言えば、
そうなるため、なのだと思っています。
自己を明け渡して、内側を神で満たしておく。
そして、それを、生きる。ただそれだけ。

瞑想の習慣のない方からみるとおそらく気持ち悪い話ですよね?
私はもちろんそう志して日夜励んでいますが、
でも暮らしはいたって普通の感覚です。

例えば些細なことが心にひっかかって落ち着かなくなること、
沖縄で教えていただいた言い方だと「さーさーする」ことなんて、
いくらでもあります。

さて、そのさーさーを追っかけて分析をしたところで、それはほとんど解決しません。
なぜだろう、どうしたらいいんだろう、なにがいけないんだろう、
あれかな、これだろうか、いやそんなはずはない。

これをやっているうちにだいたい行き着くのは
「ああもう、こんな自分でいやだな」「自分ってやっぱりだめなんだな」
「ああ世の中ってめんどくさい」などという境地です。

ヨガナンダ先生はこうおっしゃいます。
「自分の考えを見張っていなさい。どんなに多くの時間を、無駄な考えや、愚かな考え、否定的な考えに費やしているかを理解しなさい。そしてどのくらいの時間、自分が神のことを思っているのか見守りなさい。」

さーさーする自分について真剣に考えていたとしても、
それは自分と向き合うということとは違う、と
気づいている人はどれくらいいるでしょうか。
自分のことや他人のことを一生懸命思っていたとしても、
思っている自分が神から離れてしまっている、ということこそが、
気づくべきことだということなんですね。

またそこでいろんなわながあります。
じゃあ悩まないで明るくふるまっていることがいいことなんだ、
ポジティブに考えればいいんだ、という方向に向かうこともあります。

いえいえ、それもやはり、意識は外に向かっていることになります。
内面は放っておいて、外側への対処に向かっているんです。

神は内面にしかいません。この世においては。ある次元においてはすべてにいらっしゃいますが。
ですから私たちが神を思うときは内面に向かい合うしかありません。
神を体験するのも実感するのも、私たちの内側を通してしかできません。

自己と向き合う、というのは究極神と向き合うことに他なりません。
自己の本質が神だからです。

はっ、そうだった、と、さーさーから離れて神に戻ってきただけで、
さーさーは幻想となって去ります。

平安に戻れば、その原因やきっかけはもう存在しません。存在する意味がありません。
それより、戻ってきた喜びと感謝があります。
その中からさっきまでの自分を観察し、学ぶこともできます。
平安に戻ってきてこそ、初めて学びができます。

こんな、天国と幻想の間を、お皿を洗ったり床を拭いたりしながら
行ったり来たりしております。
夫と神について話し合う時、セッションの時、自己ヒーリングと瞑想の時が、
一番神を実感できる時間です。
幸いなことに、ここに時間を費やせる生活をしていることが何よりしあわせに思います。
それを選ぶことを選べた自分になれたことが、喜びです。

ハイヤーセルフからの学び

みなさんこんばんは。沖縄は急に冷え込みました。つい先日まで夏とさほど変わらない服装でいけていた気がするのですが、今日は冬仕様でも寒いと感じました。とは言え、10月に東京に行った時ほどの仕様ですが・・今日は暖房を入れながら書いております。

先日お伝えしました勉強会ですが、ありがたいことにご応募いただきただいま残席1名様となっております。引き続きあと数日募集させていただきます。締め切りの際にまたご連絡いたします。いつもながら、いらしてくださる方がたのエネルギーが内容を導いてくださいます。とても楽しみに、準備させていただいております。ありがとうございます。

ヒプノセラピストとして東京で仕事を始めてから15年以上の月日が経ちました。沖縄へ来て、ヒーラー、カウンセラーとしての自分を育ててくださったのは、いらしてくださった皆さんのお力と、内なる神の導きに尽きます。自分のため、本当の自分として生きるために始めた人間と心の探求は、真理の探究へと私を導いてくれました。

ヒプノセラピーでは、ハイヤーセルフという概念をワークに組み入れていますが、それが本当はなんなのか、始めた当初ははっきりと見えていませんでした。ただ、ワークするとそれは起こる、という感覚でした。

ハイヤーセルフとはより高次元の自己意識と言い、私たちの通常の視野よりもより広く高い見地として存在すると考えられます。瞑想によって波動が高まり魂と同調したときの意識状態と見ていいのでしょう。チャネラーと言われる方々は「私のハイヤーセルフはこう言ってる」とか「あなたのハイヤーセルフはこう言ってる」などと表現されます。

当初は私自身もいつかそんな風になるのかしらという思いで、いつもハイヤーセルフにどうすればもっとあなたの声や言葉が聴きとれるようになるのか問いかけました。

ある日、「あなたは自分の言葉でそれを語りなさい」と言われた気がしました。それがどういうことなのか瞑想しますと、それはどうやら、メッセージを自分のものとして伝え、責任をとるように促されているようでした。

それまでハイヤーセルフは自分の人格とは別のなにか、というふうに捉えていましたが、当時チャネリングセッションを受けていて度々その言葉に疑問や違和感、もっと言えば傷つきを感じることもありました。「私が言ってるんじゃないの、ハイヤーセルフ(あるいはガイド)が言ってるの。私意味わからないし」という言葉とともにメッセージやアドバイスが伝えられることがよくありましたが、言葉の表面通りに受け取ると非常に無理があることもしばしばでした。

私は違和感を感じると、そのメッセージをどう解釈すべきで何を選択すべきなのか、非常に考えました。例えば、結婚したばかりの頃、私は結婚にとても幸せを感じていましたが「ハイヤーセルフは離婚を勧めている」と言われたことがあります。私は耳を疑いましたし、それはきっと何か別のことを意味する比喩か何かだろうと最初は思いました。

また、もう子供の魂がそこまで来ていて、間もなく身ごもると言われたことも複数回ありました。

前者は自分で考え選ぶことができることで、後者は努力はできても決められないことでした。

前者に関して私は、きっと私自身が自分でも気づいていない重要な何かが隠れているのではないかと考えました。それでいろいろと内観をしたりして意識を変えてみました。それでそのメッセージが取り下げられればきっと、そのカルマは変えられたことになるのではと考えたのです。しかしそのメッセージは執拗に私に届きました。何度その人に会っても同じことを言われました。そもそも私は結婚に関しては不安も疑問も感じておらず、質問すらもしていませんでした。でも繰り返しそう勧められました。私は困惑したあげく、とうとう主人に打ち明け相談したのです。

主人は当時、スピリチュアルに関してはまったくなにも知らず、私の仕事もヴォーカリストがメインだと思っていました。しかし彼は静かにその話を聞いてから、「それは、大変な思いをしたね。よくそれをうのみにしなかったね」というふうに私に言いました。うのみにしないことには慣れていましたが、私がここでしなくてはならないのは、もっと深く、互いの認識と理解を深め、共有し、二人の目標を持ってそれに向かって共に努力をすることのように思うと話しました。主人は同意してくれました。私はそれまでにしてきたスピリチュアルの学びを全面的に主人と分かち合うことにし、成就しました。

それで今があります。

結果として、その時のハイヤーセルフのメッセージは私にとってとても役に立ちました。しかし周囲では言葉を額面通りに受け取り選ぶ人もとても多くいました。それも間違いではないのかもしれません。しかし、自分がそれを「恐れから」、そうしなければ良くないことがあるとか、またそうしたほうが人生が優位に運ぶとか、そういった発想から選んでいたのならそれは成長ではなく破壊をもたらしたと思っています。

もう一つ、子供が授かるかどうかというようなメッセージは、結果として二者択一、どちらに賭けてもフィフティーフィフティーで当たるか外れるかです。不思議なことに、「子供はできないよ」というメッセージを伝えてきた人は一人もいませんでした。自分自身で瞑想しないわけではありませんでしたが、正直望みが強すぎて真実はよくわかりませんでした。後から思ったのですが、子供が来てるよ、と私に教えてくださった方々は、私のその強い希望の想念のエネルギーを現実のものとして感知なさったのではないかと思います。

実際私は毎月のように想像妊娠と思しき症状を見せ、主人からも「今度こそいる」と思われていました。私自身が間違いなく自分のからだを昨日までとは違うと感じていました。私がそれだけ明晰に知覚しているのですからそれはエネルギーとして存在したのでしょう。しかしこの世の事実として私には子供はありません。

話を少し戻します。もし私が私のハイヤーセルフから命じられた通り、「自分の言葉」としてメッセージを伝えるとすればどうでしょう。私には自分が社会人として発言した言葉に責任がありますし、少なくても自分にまったく意味不明なことをそのまま、或いはうのみにした誤解をそのまま伝えることはできません。少なくても自分が内容をある程度理解し、良識と良心、相手の身になってどう感じるかなどの人として当然の配慮の上で言葉を発しなくてはなりません。

私はそれに従いました。結果としてその選択は私を人として成長させてくれたと感じています。

ハイヤーセルフ・ワークのセッションでは、クライアントさんがハイヤーセルフのメッセージをチャネル(リーディング)されますが、私自身がそれを理解し噛み砕くには私は真理を学ばなければなりません。

これは過去世やインナーチャイルドワークにしても言えることですが、その内容や仕組みを真に理解し、より高い見地からそのメッセージを観るには、真理、つまり神と愛を中心に置かなくては間違いが起きます。神不在の探求は時にオカルトになり、時には心の傷の上塗りをし、時に愛ではなく恐れに、光りではなく闇に、人を追いやってしまうからです。

癒しとは、必ず人を全き光に導くものです。癒しとは、分離ではなく統合に、恐れではなく平安に、真のしあわせに導くものです。それは容易で平坦な道ではありません。時に厳しさや、変化とそれに伴う恐れに人の心を晒します。癒す人とは、自らの体験に基づき、その道の伴走をさせていただく者だと私は思います。癒す人は、何度も何度もその厳しい道のりを繰り返し往復することで、自らの足場を築かせてもらいます。癒す人はそのように癒されます。

癒しは神の領域であり、真の癒し手は神と愛しかありません。私たちは伴走を繰り返しながら、神の愛を目の当たりにし、その光にあやかります。いつしかその光がゆるぎないほんものとして宿ってくれることを夢見て。

ストーリーか、愛か、

波動が高い、波動が低い、

高いのは愛、神、高次元。では低いのは?それは3次元のすべて。

3次元は、時間と空間、そしてストーリーでできている。

ストーリーには始まりと中と終わりがあり、
原因と結果がある。

つまり、地上の物語のすべて。

それは悪いわけではない。
ただ、そこには平安がないだけ。真実がないだけ。
だから幸せもない。

そしてそこには
勝ち負けがあり、優劣があり、価値と無価値があり、順番があり、

過去があり、理由があって、今がある。
今は過去の集大成であり、未来はその延長上のいずれかにある。

今がこうである理由を過去の出来事にみつけ、
過去を裁き、未来に備える。

そこでの最善とは、今を分析し、過去の誤りを挙げ、
過去の反省とともに過ごすことに専念すること。
しかし誤りはまた起こる。
努力ほど報われず、恐れは膨らみ、時間はすり減っていく。

そこに愛や平安が存在できるのか?あると考えるには矛盾がありすぎる。
なのにヒトはその延長上に愛を求める。

ストーリーに愛を組み込み、それを証明したがる。
ストーリーは自分を縛り、他者をそこへ当てはめる。

ちっぽけな枠に愛を、神を、はめ込み、カテゴライズする。
神を矮小化することでヒトは守られず、恐れ苦しむ。

波動を上げるとは、

この、ストーリーのすべてを離脱することだ。
時間と空間を離脱することだ。

すると、ヒトは魂を思い出す。
存在する意識を。ふるさとを、根源を。中心を。

高次元であるヒトは、3次元にはいない。
そのとき、ヒトは、今ここにある。

今ここを3次元内で理解しようとしても不可能。
それは、ヒトの内側にしか存在しない。
外側に今ここなどない。

今にいない限りはあるがままでいられるわけがない。
ストーリー上にいるヒトは、役を演じなくてはならない。
そこにあるがままはない。

内側にいるには、自分の中身をみつける必要がある。
中身とは意識だ。

意識をみつける必要がある。
意識を外から眺めるのはなく
意識の底へ、降りなくてはならない。
降りて、降りて、中心をみつけなくてはならない。

中心をみつけない限り、ヒトは外から中を眺める。
外にいる限り、ヒトはストーリーの流れにいる。

その中心を、宇宙意識と言う。神とも言う。最高次元とも、根源とも言う。

神から私はまる見えだが、私から神は見えない。
だから私は見えないものに祈る。

私のなかにあなたがいることを私に示してください。
私にあなたを感じさせてください。
あなたのご意志を私にわからせてください。
そしてそのように導いてください。
どうぞ私をお使いください。
あなたから逸れないように、
私のなかにあるストーリーをどうぞ手放させてください。
外側に対して自動的に反射してしまうあらゆる本能の選択を
過去のストーリーに基づく予測から
あなたのご意志による選択へと置き換えてください。
私の内側に刷り込まれているあらゆる思い込みによって築かれた価値観を
どうぞ解体し、あなたのものへと置き換えてください。
私は私の小さな枠を解体してくださるよう祈ります。
小さな枠の中にある、古い、学びを終えてしまったエネルギーを手放し
あなたへ明け渡します。
どうぞ、ここへ、住まわれてください。

すると、中心が、私の中へ広がってくれる。

その時、私は、自己の中心を感じることができ
中心から外を眺めることを知る。
外にはストーリーがあり、
自分はそこにはいない。

ストーリーを眺めることができ、
時間に縛られない自己を観じる。

ただ、今の連続が在るのだということがわかる。

未来は来ない。

来ないものを恐れる必要がなくなり、予測は消える。

過去が消え、原因が消え、今のあるがままが自己となる。
消えたものを認識することがなくなり、
それらは、今に目覚めさせるための幻想という仕掛けだったとわかる。

どのような悲惨なストーリーを見たとしても、
今に目覚めないという悪夢よりはずっと幸運だったと認識する。
ストーリーを感謝とともに、赦し忘れることができる。

あの頃に比べたら、今はずっといい、というのがストーリーだ。
今が至福だということは、ずっと至福だった。

だから、感謝がある。

映画とオラクルと瞑想と至福

みなさんこんにちは。一か月以上ブログを書かないなんて、2002年に始めて以来だったかもしれません。

改めまして、前回勉強会にいらしてくださった皆さんありがとうございました。なんというか、本当にいらしていただいて交流できたことを改めて幸せに思います。人生の価値って、こういうふうに深く(というのは心の深くでという感じ)触れ合えることなんだなぁと味わっております。

同じような思いをセッションを受けてくださるお一人お一人に感じることも、最近頓に増えています。宇宙から魂を見たとき、しるしはそういうところに深く刻まれるのだろうなと感じます。地球での学びの意義に満たされた日々です。いつも気づきをともにしてくださるみなさん、本当にありがとうございます。

こうして書いていても胸と鼻の奥にこみ上げてくるものがあります。

先日、「遺体」という映画を観ました。私と夫は数少ない趣味がだいたい一致していて、休日は家で映画鑑賞、というのは沖縄へ来てからの定番です。最初はPCの画面で見ていたのですが、ある時プロジェクターを買ってから、ウィークエンドシアターは壁に映して観ています。

車で片道30分近い道のりを出かけて行って、ひとり一本を選びます。これが実は、オラクル(神託)カードを引くような塩梅なのです。「今の私の気分にフィットする内容」とか「今の私が癒される内容」とかいうふうに意図してよーいどん、と店内を歩きます。手に取って、しっくりくるとか、ストーリー、監督、出演者などをチラ見してみて、しっくりくる一本を選びます。

観てみて、やっぱりね、とか、なるほど(今の自分って、こうだったのね)という具合に気づくこともあります。思考で狙いすぎると大失敗することもあります。

また、意図して二人でオラクルしているので、相手の状態に気づく手立てにもなります。あれ、ちょっと、疲れてるかな、とか、バランス崩してるかな、なんてね。選ぶ食べ物とおんなじくらい、選ぶ映画でエネルギー状態を読めますよ。

二人で見始めた頃は主人はほとんど「演技」なんていうものを知らなかったので、かわいい子が出ているほうがいいだろう、みたいな観点だったはずなのですが、いつの間にか見る目がどんどん肥えて「今日の誰誰の演技が弱くて全体のバランスが…」とか「ここだけ急に役者に戻っちゃってて…」みたいに言うようになりました。なぜ感動するのか、どこに感動するのか、何が足りていないのか、どうしてそうなってしまったのか、など、見終えてからこんこんとしゃべる私によく付き合ってくれています。

また、私は一本見終わった後、ほぼ必ずその映画について気になったところを勉強します。歴史だったり場所だったり、もしくは作り手、出演者などのバックボーンをググって、ああ、だからか、とかなるほどね、という具合に。これは例えばレイキのようなエネルギーワークにも当てはまりますが、先に手引き書をいくら読んでも頭に入ってこないのですが、体験や実感を得た後ですと、それにまつわる知識はぐんぐん頭に入ります。

私はせっかく大学で芸術、演劇を学んだのですが、当時はからだを動かして訓練することや表現することに夢中でした。学業を終えて数年してから今度は急に勉強し始めて、「なんだ、ここに書いてあった」「ああ、こういうことはみんな先人が体験済みだったんだな。先生の言ってた通りだ」なんて納得したものでした。

結局のところ、自転車についていくら知識を入れたところで乗りこなすにはいつか乗って漕いで、転んで体で覚えなくてはなりません。人生もおんなじです。体験が、学びです。

さて、「遺体」に戻ります。これは西田敏行さん主演の、東日本大震災当初の遺体安置所のお話です。実際の取材に基づいています。でもこういう映画ってだいたいにおいて、わかりやすく、感動しやすいような作りになっていて、さらにそういう意図が見え見えになっていたりすることが多いので、私の最終選考にいつも漏れていたような次第です。

しかし内容は想像を超えて、とてもリアルでした。描かれていたのはしかし、その悲惨さなどではなく、愛でいることの出来るたったひとりが差し出すものがその場を天国に変える、ということでした。愛でいることがとても自然で当たり前のことであればあるほど、周囲を自然に照らし、自然に周囲から光を引き出し、導くのだということ。しかしその自然のちからの威力は莫大で力強く、私のハートは最大級に揺さぶられました。

「重いんですけど・・・」と見る前から気乗りしなかった夫も、見終えるといきなり「瞑想するか」と言って、観たものをかみしめたようでした。祈らずにいられなくしてしまう、荘厳な命の尊厳にただただ圧倒されるような、そんな作品になっていたと思います。

全ての方におすすめ、というわけではありませんが、迷っている方はぜひ^^

さて、瞑想に入ると、あらゆるいのちの尊さが押し寄せてきました。セッションを通じて私とつながってくださった方々の顔が次々に現れもしました。ただただ感謝が押し寄せ、涙と鼻水が流出し続けました。実は少し前から、至福を体験させてください、とヨガナンダさんを通して神さまにお願いしておりました。この世の本質は至福、だそうです。目覚めるということは、無限の至福の中にいること。私はようやく意識と宇宙の仕組みがわかってきて、感謝を体験させていただけるようになったけれど、至福ってどんなんだろうな、その片鱗でも教えてほしい、と、思うようになってから、なんというか、その片鱗が出てくるようになりました。

私たちはいつも、愛の中にいます。私たちの中に愛があるのではなく。肉体の中に魂があるのではありません。魂にくっついているのが肉体です。私たちの内側には内なる神がいます、とみなさんにお伝えしていますが、すべてが神の中に在るのが本当です。そのことを意識するにはただ全部愛だ、と思っても実感に乏しいかもしれません。でもいつも内なる神とともにあって内なる神を通してすべてを体験するようになってくると、実はすべては神の中にあったんだ、ということが理屈じゃなくわかるようになってくるのだと思います。そっちが真実です。

真実はいつも私たちに優しい。優しさをたくさん、地上に見いだしましょう。

天使の羽

鏡の前で瞑想していると、身体の周りを光が取り囲んでいるのが見えます。

私は普段から世界が金色の網目で満たされ繋がれ構成されているように見えているのですが、同じような金色の網目が頭の周辺は濃くなっていて、よく宗教画などでイエス・キリストやブッダ、仏像のあまたの後ろにある後光にそっくりです。

セッション中はクライアントさんの頭の周りにそれをよく見ています。相手の方の後光を見ながらセッションしているのは素晴らしい気持ちです。今たとえどんな問題がその人に訪れてどのような状態になっていようと、それはただの現象であって、本質はどなたも光、神、愛です。

先日鏡の前で瞑想していて、身体の両サイドになんだか人のシルエットのような光があるのを見ました。両サイドに光の身体のガイドが立っていてくださるようにも見えます。

それを眺めているうちにそれはよく大天使の羽として描かれている大ぶりの翼のようにも見えてきました。おおぶりの翼は関節のようなところがてっぺんに丸く飛び出して描かれています。あそこがちょうど頭で、ベールをかぶった人の姿と重なる感じなのです。

それで私は、最初に天使を描いた人はこれを見たのではないかと思いました。

今そのビジョンを思い出しながら書いていると、ガイドのような人は私のバイブレーションが光に投影されていたようにも感じられます。それで、私の残像が両サイドに映って私の目に見えたのかもしれません。瞑想しているといろいろなことが知識を超えてふとわかったり納得したり新たに知ることがあります。

ガイドも天使も神も、すべては私たちのひとりひとりの意識の内側に在る。すると私たちが無限の可能性を秘めた存在だとわかります。その内なる秘められた私自身に日々出会っていくのが人生のようです。

本当の自分のみつけかた

みなさんこんばんは。

先日行われた選挙では、みなさんの温かいメッセージを多数いただき、本当にありがとうございました。

私は普段出来る限り自分の波動に正直に生きるようにしているので、私が引き寄せるのは自分と似た波長の方ばかり。私のエネルギーをキャッチし理解してくださる方々に囲まれて暮らしているので地上は楽園に近いです。平安なのでいつでも瞑想にすっと入ることができ、内なる神や高次元の愛と呼ばれる意識にもすぐにつながることができ、感謝と優しさと思いやりと人間という生き物の複雑で精妙で美しい仕組みを肌で感じ、心で感じ、そしてみなさんにもその内なる世界を知り、体験し、理解し、愛せるようになるお手伝いをして暮らしています。本当にどこまでも広がり希望があり可能性と冒険に満ちた世界です。

もちろんこれは徐々に私の中で築かれていった世界です。とてもキメの細かい内面のお掃除にコツコツ取り組んでいる結果です。最初から今のような状態が想像できたわけでもありませんし、目指したわけでもありません。ただ、気になることをお掃除していったらあるとき部屋の全貌が見えて、そうなるとお掃除どころが更に明確になり加速していったという感じです。

ですが、311のあと、政治、国家や社会というものを探求するようになりました。なぜかといえば、そこに見えないおかしな壁を感じとったからです。

内面をクリアにするほど、その壁と影はくっきりと、なおかつ歪んでいるのがわかりました。それはねじれていました。つまり、実態と、認識の間にいくつかのファクターが挟まっていて、それは意図的に歪んだ像を結ぶべく操作されていました。

それは不自然で、嘘がたくさん含まれていました。その嘘が混乱を起こさせているのは明らかでした。その嘘という壁がとても気になりましたし、これは引っ掛け問題だったと思いました。

スピリチュアルを愛する皆さんの間によくある誤解ですが、内面を綺麗にしたら世界も綺麗になるというもの。ですがこれはどちらかと言えば内面をクリアにしたら世界もクリアになる、が正解に近いと思います。つまりあるがままがくっきりと見えるという感じです。混乱や痛みも、ぼんやりしたなんかモヤーとしたものではなく、散らかったお部屋の中には何と何があって、その中に重要なものやついでに置いてある物もある。そしてそれを識別することができいらないものは楽に手放し重要なものにはじっくり向き合うというような対処ができるという感じです。モヤーに騙されなくなるのです。モヤーに圧倒されたり、挫かれたり折られたりせずに、はっきり見ることができます。そしてそれさえ出来れば、恐れずにそれを「感じる」ことができます。

私が皆さんと向き合ってご一緒にやっているのはこの作業です。識別、整頓ができても確信が持てない、あるいは「感じる」ことはそれ自体が恐いと思っている人も大勢います。

この壁にぶつかる多くの方は「共感能力」の高い方です。繊細で傷つきます。ですから、そういう人に限って「できるだけ感じないように」普段からとても用心して生きています。子ども時代にいったん閉じる人も多いのです。そして成長の過程でいちいち開いていければ良いのですが、閉じることで身を守ってその方法に則って生きてきたため、開くタイミングがわからなかったり、あるいは閉じたことを忘れてしまっています。これがインナーチャイルドのブロックと呼ばれるものです。

このブロックは取り除けばいいというものではありません。取り除かないと感じることができないので多くの方が思考をフル回転しながら生きています。思考は時系列でしかものごとを捉えることができないので、このように思考に頼ると常に先の心配、過去の後悔、未来の不安とそれに対する対処、過去の総括、反省に追われ、人生をこれに費やしてしますのです。

そうすると、ワクワクすることをしなさい、と言われても感じられない。好きなことをして生きなさいと言われてもわからない。やろうとすると頭で考えて計画を立てたり遠い未来にゴールを掲げて、ここにたどり着くまでしあわせにはなれないと信じてしまったりします。

申し上げておきたいのは、ワクワクすることをするのが人生の目的ではありません。好きなことをして生活することが成功ではありません。

人は幸せになるべく生きると真理がわかります。真理というのはそれぞれの魂が惹きつけられる光です。そちらへ向けて生きるようになると人は愛を体験します。

私はどの道を通っても愛を生きることができます。でもそれは魂を乗せて運んでくれる肉体があって体験できることです。この肉体なしにそれを色々なレベルで実感できません。ですから私たちはすべてのいのちを尊ぶ必要があります。肉体は等しくその内側に神を宿し魂を運び、魂はより高次の目的を見つけてその道を歩みながら成長します。まずは人は等しく尊いという、人権というものを人間が見つけることができこれを社会に反映することができたのが、人類の叡智の顕現です。

今日本は人類がその血みどろの動物的な歴史から学び得た叡智を闇に隠そうという動きの中にあります。これは人間として大きな後退であり、多くの犠牲を伴う動きです。これまで磨き上げ丁寧に愛という光を織り込んできた人間の心を破壊してしまうでしょう。

ですから私は内面に向きあうとともに、この外側で起こっている動きを皆さんの内面に問いかけていきたいのです。

私はまだ多くの人が幸せではないのだと感じています。もし幸せでしたら、このような後退は誰も望まないのです。誰も磨きあげた美しい庭園を荒らしてほしくありません。大切な人を乱雑に扱いたくはありません。幸せでない心は混乱し、ものごとを順序立てて理解することができません。違う次元のもの同志を見比べて判断してしまうよなことが起こります。そして破壊的な思考になります。

私は人間の探求を続け、解けない混乱は存在しないということを発見しました。私達はすべて元々ひとつの光です。そのことを思い出すには、あなたの心を稼働させてください。心で感じ、あるがままを見て、それを受け入れます。そうしていると壁はどんどん溶かされ思い込みで作られた枠は解体され、やがては本当の自由と内なるパワーと可能性を感じられるようになります。

ご自身へ問いかけてください。私が気づくべきことはなに?私に付けられている目隠しはどれ?私が恐れて避けているものはなに?その奥にある心の声はなんて言っているの?と。

難しい時は私をお使いください。お手伝いします。そして慣れれば自分でできるようになるどころか、いつの間にか自分を、その隅々まで、また人生を、家族を、運命を、愛している自分に気づけるはずです。

平和を祈念

6月23日は慰霊の日。私も東京にいる頃には知りませんでしたが、沖縄ではこの日が終戦記念日。沖縄戦の終わりの日です。

沖縄で生活していると、戦争はとても身近です。それもそのはずで、沖縄戦で亡くなったのは島の人口の4分の1のいのち。家族や親戚に戦死者がまったくいないということはまずないのではないかと推測します。

私達の心、つまり潜在意識以下の深い部分は家族やそれ以外の人とつながり重なりあい、また親から子へと引き継がれていきますから、現在でもほとんどすべての人が戦争の影響をとても強く受けていると観ることができます。

先日は主人の患者さんとして往診を受けてくださっていたおばあちゃんの3回忌に行きましたが、その娘さんの口から「沖縄で宗教に入る人が多いのは戦争で心の傷を受けた人がとっても多いから。」という言葉がごく当たり前に、自然に出たことに主人も私も一瞬驚いたのでした。深く考えなくても自然にそうだとわかるのでしょう。内地の人と沖縄について話す時、私達夫婦が「戦争の影響だと思う」と言うと、「どうして、こんなに時間が経っているのに?」と聞き返されることが多いので、あまりにごく自然に交わされた言葉に逆に衝撃を感じたのでした。

本土にだって本当は戦争の傷跡はいくらでもあります。日本が経済をあまりに拠り所にしてしまった流れも先の戦争の反動にあるだろうし、神アレルギーもそうだと思います。先の戦争では天皇陛下を神と崇め、その神に妄信的にいのちを捧げてしまったことを多くの人が悔いたのではないでしょうか。そして経済という一見平等に見える恩寵を誰もが信じたのではないでしょうか。私が育った日本にはそういう空気が色濃く漂っていたように感じます。

私の祖父は沖縄戦で戦死しています。おじいちゃん、という存在に私は会っていません。私が生まれた時からそうでしたから私にとってそれは長いこと、そういうもの、でしかありませんでした。けれど母にとってはお父さんが欠けており、お父さんの愛や恩恵というものに浸った記憶はおそらく意識の奥底に封印されたままでしょう。母はそういう意味でとても強烈に偏っているはずです。その偏りは私にも引き継がれました。

こうやってすべての人が自分の心、意識というものに向き合ったのなら、その偏りに気づきそれを愛によって修正していくことが可能です。ですが、東京で生きていて誰が戦争がもたらした心の傷について真剣に考えるでしょうか。そんなことをしている間に経済活動をしなくてはならず、また自己顕示の方法について思案しなくてはならないのです。そうしなくては生きていけないと、誰もが思い込まされ自らも同意しています。

沖縄はそうではありません。沖縄では、すべての人は祖先によって生かされています。亡くなった祖先は、肉体が無くなっても心は生きています。肉体を持たないご先祖は一族を守ると同時に肉体のある子孫によって浄化の修行がつつがなく送られるよう愛され守られます。

沖縄で今現在暮らしている人はもちろんですが、きっとその何倍もの魂が、平和を願っていることでしょう。肉体を持たないご先祖とすべての魂が平和を、と、叫んでいる声が聞こえるように私には感じられます。

戦争を一見遠く離れてしまった現代人にとって平和という言葉は捉えどころのない曖昧な響きに感じられるかもしれません。スピリチュアルの何かの本に「戦争」は明確だけど、平和は人それぞれイメージが曖昧だからいくら望んでも実現しにくい、などと書かれたものがありました。その時はなるほどな、なんて思いましたが、今ではそんなのただの言葉遊びだとわかります。平和というのは明確なものです。平和とは人間とはなんなのかがわかった人が築く次元のことです。

地球に戦争がなかった時間は有史以来存在していないと言われます。おそらくそうなのでしょう。だからといって人間とは争う生き物だということの証明にはなりません。その争いはいつ終わっても不思議のないものです。人間が人間についてもっと学び、その本当の姿になる努力を多くが始めた時にはそれは終わっています。私たちはまだ人間の本当の素晴らしさを実感し共有し次元を築くには至っていないのです。ですから私は瞑想が広まることを望みます。内なる神を個々が敬い自己について学び、人間の素晴らしさに個々が気づく時を望みます。人間に絶望している人がどうして平和でいられるでしょうか。自分を愛し敬えない人がどうして平和を築けるでしょうか。

そんなに回り道しなくてもいいのに、と私は思います。いろんな問題を片付けているうちに人生は終わります。社会も当然そうです。でも、個々が自己に気づくだけで世界は上昇してしまいます。もし自分はそうなっているが社会が変わらないと思う人がいるなら、多分何かを見落としています。自分の中の何かを見ないように、感じないようにしています。でも実際は私たちは次元上昇し続けています。そしてそれは加速します。

私達にできることは限られていますが、体験できることは無限です。つまり本当は労よりも恩恵のほうがはるかにうわまわっています。ですから、私は最小の力で戦争を終わらせることが、人間には可能だと思っています。それが結果的には人に、地球に、環境に優しい方法なのです。意図的に戦争を終了した時、世界は物理次元でも変わります。その時には理解という愛は飛躍的に深まり、受容という愛は圧倒的に広がります。新しい解決法が当たり前のように実現していくでしょう。解決法が先にあるのではなく、私たちは上昇することで新たな解決法も手にします。いつでもどんな場合でも、内なる気づきが先決なのです。

どうしていいかわからない、と多くの人が口にしますが、次元が少し上がれば答えはすぐにわかります。次元を上げるには瞑想なのです。