心の傷は脳の傷だそうです

昨日のおやすみは、遅ればせながら大渡海岸で初泳ぎしてきました。夏休みだし、観光の方が増えているので混みあっているかなと思ったのですが、相変わらずのんびりして地元のつり少年のほかにちらほらと泳いでいる人がいる程度でした。近年の水温の上昇でサンゴが随分死んでしまったと聞いていてとても悲しいのですが、大渡は相変わらず美しかったです。

うみんちゅさんのお話を伺うと、たとえば水中に橋を一本立てるだけで海中の環境は激変するそうです。急に魚がいなくなったり、赤土が流入して汚染されてしまったり、私たちが想像する以上に地上って微妙なバランスの上に立っているんですよね。

さて、昨日ネットで拾った情報なのですが、「子どもの脳を傷つける親たち」という著書が話題のようです。

著者の「友田氏は脳科学の専門家で、親による不適切なかかわりで子どもの脳がどう変形するか長い間調べてきた」とのこと。

結果「言葉による虐待はどんな痕跡が残るのだろう。『心が傷つく』というが、身体のどの部位が傷つくのだろう。友田氏たちが見つけたのは、脳に痕跡が残るということである。」

読んでいなくて恐縮なのですが、脳の仕組みの部分について私は非常に納得です。対処については、対象が子供であるなら、書評にあるようにおとなや社会が手助けをすべきだと思います。でも(例えば私のように)その時期に救われずにおとなになった人にも、もっと本質的な救済があることがもっと広まるといいと思います。簡単な書評がありますのでよろしければそちらを。

潜在意識やヒプノセラピー、また瞑想についてもレイキヒーリングも、それがなぜ功を奏するかを研究すれば当然、脳の仕組みを考えざるを得ません。トラウマと言われるものを始め、「過去の記憶全般」が私たちにどのように影響を与えるのか、それを理解することは脳との関係を理解することとも言えます。

私は傷、というよりも「溝」というイメージを持っています。傷はそれだけで痛々しいのですが、意識や脳に刻まれているものに痛々しいというイメージはいらないのです。ただそれをあるがままに知って、理解すること。それができれば、神という無限の生命力の源を受け入れる準備ができます。

みなさんが「これが私の性格」だとか、「そのように育ってしまったから仕方ない」(でも本当はなんとかしたい)と思っている自分の特定の、心の反応やそこから来る態度が、脳に刻まれた溝のためなのだとしたら、或いは圧迫をうけ変形してしまった脳の領域のためだとしたなら、それはあなたの宿命ではなくて一つの傾向であり習慣でもあります。私たちはそれに取り組むことが可能だということです。

書評のなかに「脳は再生しないと考えられてきたが、近年、再生回復の可能性が見出されてきた。」とありますが、脳のことなんて人間はまだほとんど知らないのだと私は思います。それよりも、脳が実際になした人間の数多くの奇跡にも見える変化や進化こそが事実でしょう。実際に使われていない部分が多くを占めると言われている脳ですから。

私たちは、古い溝を使うことをやめて、新しい溝を掘りたいのです。たとえば信頼という溝を。たとえば平安という溝を。たとえば勇気という溝を。つながれていなかった神経細胞同士に手をつないでもらいたいのです。その新しい道を電気が流れ、信号を送り、そこで発した火花が世界というスクリーンに陰影を映し出します。その映画が、私たちの新しい世界です。これは脳の話です。そして、意識の、そしてそれが創る現実のお話です。

過去にショックを受けた溝を電気信号が走るとき、心は葛藤し、緊張と対立は私たちを疲弊させます。瞑想やヒーリングはこの電気信号の周波数に変化を与えます。変動した電気はその古い溝をなぞらずに別のルートを通るか、またはその溝への影響自体を変えていくのではないかと私は考察しています。おそらく未来のいつかには、そういったことが明確に語られるようになっていくことでしょう。

しかし本当に意味があるのは、語られることよりも体験することです。

生まれつき不幸でずっと不幸でいるために生まれてきた人はいません。人は言わば幸せになることを通して進化しています。意識は今すぐ変化できます。脳がすぐに再生されなくても、不思議ですが私たちの意識の領域にはそれ以上の意志が働くことがあります。肉体はゆっくりとついて来てくれればいいのです。

他者から理解されるためには

「人生は難しい」と思いながらずっと生きてきましたが、その割に気がつくと、「心底納得したこと」や「確信したこと」は、時間や体験を経ながらいつか「やっぱり思った通りになった!」という結末を迎えることが多くなりました。

それらは達成されるとか、認められる、というようにではなく、「やがてみんな本当のことに気づくようになる」というように自然に訪れます。

私の信念は「誤解はいつか必ず解ける」であり、「あらゆる不和は誤解」です。

人間は誰もが多かれ少なかれ周囲との比較によって自分を理解しようとします。人間が社会的な生き物である所以です。しかしその対比の基準となる価値観はほぼ、その人の感覚的な慣習によって形作られています。

私たちは自分の色眼鏡で周囲を測った上に、その測った周囲との比較で自分を測ろうとするわけです。こんなおかしなことをしています。それが誤解でなく真実だと思うこと自体、ちょっとクレイジーですよね。

もし誰かがそのことに気づいて、まずその色眼鏡に着いた色を落とすことに専念し、透明になったところで周囲ではなく自分を見つめ、内部を理解し、そして改めて周囲を見回してみたらどうでしょう。いかに以前の自分がおかしな目線で物事を理解したつもりになっていたかわかります。

問い直され精査されない価値観は刷り込みにすぎません。その眼鏡に適わないものを裁き続けることを多くの人は正しいこと、と考えています。

すべて、誤解です。

また、自分は周囲から誤解を受けている、と感じている人も多いかもしれません。自分は理解されない、と。

いったん誤解を受けたと感じてしまうと、人間関係がうまくいかなくなりこじれます。誤解を解くために頭の中で、「あなたが思っているのは誤解です。私は本当はこうなんです」と説明を繰り返します。あなたは誤解しています!と。

しかしこの説明もなかなか理解してもらえません。

だってそうですよね。その説明って、「あなたは間違っています。私は正しいです。あなたが改めなさい」と相手にメッセージを送っているようなものです。そう言われて喜んで受け入れる人なんてそういないでしょう。

「誤解を解くためにできること」。それは、自分がもっと理解することなんです。相手にわからせよう、わかってもらおう、とがんばる暇があったら、自分にくっついている目隠しに気づくことから始めます。

「でもどうやって?!」その通り。目隠しが付いたままその目隠しを見ることはできませんよね。・・・ただし、自我・思考のちからには、です。

私たちにはすべての人に、より高次元の意識、つまり魂、そして内なる神の意識が備わっています。だから、そこに依頼して気づかせてもらうのです。

心を静め、そちらに寄り添い、「自分にくっついている目隠しを緩めて真実を悟らせてください」と願うこと。それが瞑想です。

誤解を解くために相手を変える必要はありません。私自身がより真実の自己に近づくことで、より全体性を理解することができれば、相手をも理解することになり、真の相互理解へと道は通じるのです。

これが今とこれからの、真のコミュニケーションの時代のやり方になるだろうと、心から確信しています。

唯一のワーク。


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私はよく、仕組みを理解することの大切さを口にします。例えば意識の仕組みを知り理解することで、無用な疑いや迷いを大幅に避けることができると思います。自分で考えて答えをみつけることも人間にはとても大事ですが、同時に考えてもしようのないことについて考え続けて消耗したり、破壊的な思考や行動に支配されたりするのにいのちを費やすのはとてももったいないことだと思います。

人間の感覚や思考というのは環境や心の状態、体調など(自己のエネルギー状態)に大きく左右されます。ですから自分ではまっとうに理論的な考えの上に判断しているつもりでもある時には右、ある時には左にというふうに重心は傾き、その傾いたところを起点に世界を眺めています。または目を凝らして世界を見つめているつもりでも、その目にフィルターが貼り付いたりしています。目にピッタリとフィットしているほど違和感なく見ることができるので、その目自体が狂っているというふうにはなかなか気づきません。

そんな時、仕組みを知っていることで自分を客観視することがしやすくなります。全体の地図が頭に入っていると、自分が傾いているな、とか、目的地に向かう道から反れているな、とか、急ぎすぎかもしれない、などというふうに見ることができます。

しかしこれらの客観視というものを、瞑想なしに行うとどうなるでしょう。こういった行為がただのあら探しや自己批判に繋がる事になります。自分を定規で測ってはみ出す部分を罰したり嫌になったり。こういうことをしていると人間は今ある喜び、今ある創造力、生命力から遠ざかって不幸という迷妄の中に落ち込んでしまいます。

瞑想ありでの客観視では、客観視の視点がぐっと広くて高い、見晴らしの良いところになります。瞑想なしでは自分の今いる場所を特定しようとする時、どこが間違っているか、どこが他者と違っているか、かっこ悪いか、周りについて行けていないか、どう思われているか、どこが好きでどこが嫌いか、人に嫌われていないか・・・というふうに、3Dの次元で自分を把握しようとします。でも瞑想のなかで自己を捉えるとその基準となるポイントは全く違ってきます。

ざっくりと言えば自分が軽くなります。瞑想のなかで自分を眺めると、自分はなにもちからを加えずとも立っていることができます。座っていることができます。すぐ隣に比較対象する何かがなくても、安心して自分を眺めていられます。比較対象するものさしに合わせたり、合わせようとしてちょっとひっぱったりちょっと背伸びしたり、そういう小細工もいりません。企画サイズと比較して自分はこういう人間です、と語る必要がありません。

多くの人が、自分はこういう人間と言うとき、好き嫌いや二極のものの一方(明るいと暗い、大雑把と几帳面、楽天的と悲観的など)や他者との比較によって表現しようとします。瞑想はそういった浮世の価値観を外し、神(霊的な理想)の世界にある自分を見せてくれます。誰かと自分の違いなどというものは比べても価値のないことであって、神と私との関係だけが重要だと感じるようになります。そして他者との関係はと言えば、神のもとにみな平等というふうに見えてきます。もしみな平等に見えないのだとすればそれは神の視点というものから自己があまりにかけ離れてしまっているからです。近づくためには瞑想です。

自分は今こういう理由でこういう状態なのだ、なるほど、というふうに理由をみつけようとする人はとても多いと思います。理由を知ろうとすることは、仕組みを理解したいことの現れなのだと思います。私もかつてはそういうことを調べまくりました。しかし、知って納得というのはその場ではすっきりするように思えるのですが、それを積み重ねてみても気がつくと幸せにはなっていない、ということが起こります。それが長いこと続くと、知っているのにできていない自分にばかり出会うことになり、結局は人生が重たく重たくなっていきます。進化と幸福の成就のためには原則があります。それは、自ら変わろうとするか、得ることではなく手放すことによって、です。

私たちの内には神の資質が眠っています。それは人間が身につけてきた覆いによって包み隠されています。私たちは一様に思い思いの服を来て、神の資質を覆っています。そしてもっと違う、もっと上等な服を探しまわっています。或いはもっと自分に合った自分だけのための服を。そしてなかなかその服を着ている自分自身というものに気づきません。

いったん服のなかみに気づいていしまうと、服を着ることに必死になる必要がなくなります。もちろん、引き続きそれを着てもいいですし、もっとシンプルなものに着替えても(それはなるべくなかみを遮らないためにという意味で)いいかと思います。慌てて裸にならなくてもいいし、裸でいなくてはならないわけではないとわかります。ただ、服のことが気になるときには即座にそのなかみのことを思い出すようにすべきでしょう。瞑想をたくさんするのはそういうわけです。

ソウルメイトは劇団員。


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百名ビーチのお散歩
百名ビーチのお散歩

よく「この世は舞台、人はみな役者」と例えられますが、演劇には舞台上のルールがあり、そして脚本という筋書きがあります。私は演劇に出会い、舞台上で演じている時に初めて「自由」ということを実感しました。ルールというのは例えば、切迫した感情をぶつけ合いながらも絶対に自分自身や他者を(肉体的にも精神的にも)傷つけず、信頼を築く、というようなこと。役者はそのようなルールがあるからこそ、全力でぶつかり合うことができます。また、脚本や設定があるということは、その結末や目的地が見えているということです。

それで、実際の人生の中でそのようなルールや目的地を見つけられれば、或いはそれらがあるかのように生きられれば、もっと幸せになれるのでは、と考えました。

ただ、私が言いたいのは、人生のストーリーや未来に起こることを予知することがそうだというのではありません。スピリチュアルというと最近は占いとよく一緒に扱われますが、出来事を予測することと仕組みを知ることは違います。ルールや目的地というのは言い換えれば仕組みのことです。

私たちは意識を使って世界を創り、認知し、人生を生きています。しかしながら私たちはこの意識というもの自体をよく知りません。仕組みを知らないまま使っているので誤解と混乱に満ちています。誤解と混乱があると、苦が生じます。私たちが幸せになるためにはこの苦から自由にならなくてはなりません。

過去世についての説明をするとき私は、魂を役者、肉体を役柄に例えます。

ソウルメイトは同じ劇団の劇団員です。何度も一緒に演じている気心の知れた、信頼できる役者同士です。

同じ劇団で何度も違う演目の公演を繰り返しています。これが転生です。

一つの魂は数千という役柄を演じてきています。魂はベテラン役者で、人間を演じることには慣れているのですが、毎回役に没頭するので、その役柄の人生観や価値観、性質も意識に刷り込まれています。これが潜在意識の記憶です。時には自分が役者で演じているのだということを忘れ、舞台のルールを忘れて、本気で相手役を憎んだり殺したりしてしまうこともあります。そして、今の演目で今の役柄を演じて相手役と絡んでいるときにふと、前回の役柄の時の記憶や癖が頭をよぎり、動作やセリフに表れてしまいます。これが過去世の影響です。

そうすると、相手役は戸惑いながらもつい、そのアクションにつられてリアクションをとってしまいます。自分も前回の役柄の気持ちで反応してしまうのです。今回は仲のいい親子を演じているはずなのに、前回の敵対していた兵士の時の記憶が出てしまうのです。一触即発なピリピリとした空気が互いの間に流れます。そんなつもりはないのに、そのピリピリムードに乗っかってしまいます。前回演じた時のリアルな感触が肉体感覚に刷り込まれているのでそれを演じるのはお手の物なのです。

こんなことが起こると、今回の演目はぶち壊しです。そして頭では軌道修正しなくてはと思っているのに、顔を見るとつい慣れ親しんだ方のリアクションが優位になって、互いに悪循環が起こります。

こんな感じで、私たちは数千回と繰り返された過去の役柄の反応の蓄積を持ちながら今回の新しい演目に取り組んでいます。これは演技の引き出しが多いようで良いことのように見えますが、実は無駄も多いのです。そこであまりにも過去の役柄の影響を受けすぎているならそれを意図的に解放することができるということです。それにはイメトレが効きます。イメトレというと軽いですが、これが瞑想、或いは催眠療法です。

瞑想は、いろいろな役柄のイメージでいっぱいになった意識をいったんからっぽに近づけて、魂だけの存在だった自分を思い出そうとする試みです。着込んだ衣装を外し、自分に染み付いているセリフや感情や自己イメージに気づいて、それを返上します。そして自分は役の人間である以前に、役者であり、どのような役にも愛を持って演じているだけだということを思い出すのです。

そうすると、演目のストーリーに巻き込まれずに、演じていることへの喜びと感謝が戻ってきます。役者は悲劇をも感謝と喜びと使命感を持って演じます。その根底にあるのは愛です。

ヒプノセラピーで退行催眠を体験すると、このような意識の仕組みに実際に触れることができます。そうすると、自分はこんな性格、こんな人格、こんな人、という自己認識は単に感覚的な記憶であること、また感情は物質のように扱うことができるエネルギーだということもだんだんわかってきます。

多くの人が、自分という存在を誤解することで苦しんでいます。その苦から自由になるには本当の自分を知ることであり、自分に対する自分の誤解を解くことなのです。

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私がセラピーを通して知った真実。


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人間の思考は認識のために常に比較をします。感じることをやめて思考に自分を任せることは一見合理的で知的見にえますが、思考は潜在意識の反応に従って価値判断をくだし、身近に感じられる手っ取り早いものを基準に設けてそれと何かを比較対照しものごとを認識していきます。

「潜在意識って、いいものだと思っていました」と先日おっしゃった方がいらっしゃいました。そうですよね。潜在意識を活性化して成功哲学に利用するなどのやり方はビジネス書などでも知られていて、あたかも人間の能力、超能力ばかりが眠っているところみたいにイメージされがちです。

潜在意識は、五感を通して認識された記憶全体です。体験から得た肉体的感覚の記憶の貯蔵庫みたいなものです。思考(顕在意識)に比べて100倍とも10000倍とも言われる意識の領域です。もちろん役に立つ面も多々あります。才能は過去世の人生での訓練の賜物で、これらも潜在意識の中にありますから、それはきっかけによって引き出され生かすことのできる記憶です。

ここにはそれ以外にも混沌とした不条理な命題がいっぱい詰まっています。幼少期に体験から刻まれた信念などが無秩序に入っていて、真実ではないことだらけです。セッションではよくこんなふうにお話します。

お母さんの声が優しくて(聴覚)抱っこされたらあったかくてやわらかくて(触覚)いい匂いがして(嗅覚)辺りは明るく光が差し込んでいて(視覚)おっぱい飲んておいしかった(味覚)。それでとっても安心していい気持ちだった(価値)。

潜在意識の記憶はこんな感じで赤ちゃんである私たちに刷り込まれます。そしてこんなふうに受け取った感触と価値を『愛情』として記憶したりします。

反対に、お母さんの声がピリピリして、お顔も恐くて、お腹がすいて元気がなくなったからおっぱいちょうだいって泣いたけど、お母さんはどこかに行っちゃって、その間とても寂しくて不安で、辺りは薄暗くなってきて、寒くて、でも自分ではなにもできないし、とっても辛かった、などという記憶は、日常にありがちな些細な一瞬の出来事のようですが、赤ちゃんにとっては永遠の不吉な無力な時間であり、これを『愛情不足』として記憶したりします。トラウマ的な記憶とも呼びます。

トラウマって、もっとドラマティックだったりエゴイスティックなイメージがあるかもしれませんが、年齢退行療法を長いことやっていると、こういったことがあとあと、影響を残すことが多いことがわかります。不可抗力で誰も悪くないのに、傷あとは残り、こういう記憶を核にして、寂しさ、不安感、愛情への飢え、無力感、自分への無価値観のような観念が意識の中に巣食うように根付いています。

この愛情と愛情不足の記憶のどちらも絶対的な真実ではありません。たまたまそういう体験をしたというところから、その人がそのように受け取り、そこに価値基準がセットになってしまっているだけです。

もちろんたったひとつの記憶だけでそれがトラウマになって強力に影響を残すとは言えません。もっと言えば私たち人間は集合的意識のレベルとして、これらのマイナスと言える感覚を共有しています。サバイバルの長い動物としての歴史から、これらの感覚は私たちの本能的とも言える自己保存の意識にも根深く結びついていると考えられます。

心のセラピー、ワークはこういった体験から作られた思い込みを解くことに始まります。

あったかい=良い。
冷たい=悪い。
明るい=いい。
暗い=悪い。
こういうレッテルを剥がしていきます。
人によっては、鉛筆=良いとか、洗濯=悪いとか、金=良いとか青=悪いとか、そういう意味付けや価値基準があるかもしれません。
地域や文化によって昔からそうなっている基準もありますし、好き嫌い、というのも多分にこの思い込みに左右されます。

こんな価値基準のもっとも重大な罠は、自分の価値、人間の価値についてもこれらの付随的な条件付けによって測ってしまう点です。

『自分を愛する』という取り組みを難しいと感じる人の内面を観察していると、その理由がわかります。それは、自分を耐えず周囲の他者と比較して、その比較の結果を好きになろうとしているのです。

「この点で私はあの人に劣っている。だけど私は私を好きでいなくてはならない。」
「この点で私はあの人に優っている。だから受け入れられる。」
「本当に優っているかどうかはわからないけど、これは好きだ。(或いは正しい。)だから愛せる。」

こんなことをしています。それで、愛せる項目を増やすために、或いは減点を減らすために努力しています。その努力は、ある程度役に立つこともあるでしょうが、しかし愛するというもっとも大事な点においては機能しないでしょう。だから多くの人が苦労しています。

まず、愛というのは好き嫌いとは関係がありません。好き嫌いというのは先ほど書きましたように、何かしらの体験から来る価値基準に無意識的に照らされています。または思考によって合理的と判断されたことで受け入れやすく安全な感じがするという心理から来ることもあります。これを好きでいることは、社会通念からいっても通りがいい、だから好き、みたいなものです。人を好きになる時に、こんな仕事をしているし、こんな学校出ていて、国籍はこれで、家族構成はこんなで、財産はこれくらい、だからとっても好きになりやすい、みたいな感じです。財産は、というところで多くの人はそれは違う、関係ないと思うかもしれませんが、仕事とか趣味とかその人の好き嫌いなどについてだとその人を判断する材料として誰もが考慮するのではないでしょうか。プロフィールにも好き嫌いなどの項目はよく載っていますよね。もちろんその人がなにに心を惹かれるか、というのはその人の意識の波長や霊性とも関わっているので、その人を知る上で重要だとは思います。

しかしそれとは別に、人間は嫌いでも愛することはできます。愛という次元は好き嫌いの次元を超えています。キリストは「汝の敵を愛せ」と言いましたがまさにこのことでしょう。これを理性の愛、アガペの愛というのですが、人間は思考によって好き嫌いを決めつけることもできますが、理性によって高次元の愛に自己を近づけていくことも可能です。

そのために、思い込みを外していくのです。それをするかどうか選ぶのは自分の意志です。しかし意志や思考や理性だけで愛することはできません。愛は感じるものであり、実感するものです。ですから私たちは感情、感覚の領域である潜在意識を再教化していく必要があります。思い込みによってただ反射している意識の習慣を取り除いて、もっと深く広い、高次元の領域であるハートで直に感じるようになっていくのです。これが自己意識の浄化であり、癒しです。

愛するというのは、あるがままにそれを観るというのと似ています。自分なりの価値基準のフィルターを外し、そのものを観ます。当然、比較してそれを知る、というふうにはしません。比較してその価値を知ろうとしているのは思考ですが、思考自体はそれを知っても愛することはできません。あるがままを観ることができるのは愛という視線です。それができている時、ハートが開いている、と言うことができます。

開いても大丈夫、開いたほうが楽、というふうになるには、心(自己意識)のお掃除が必要です。人間は恐れがあると心に鎧を付け、扉を細く閉じて、自分を守ろうとします。その結果、自分に差し込むおひさま、流れ込む愛もちょろちょろとか細いものにしてしまいます。あるがままで幸せであるにはこの恐れている状態を手放す必要があります。

恐れは思い込みによって増幅します。増幅した恐れは実際にある脅威から身を守る以上に強固な守りを固めようとします。それを等身大に戻してあげるには、過去に身につけてつけっぱなしになっている、実際は役目を終えた鎧を外して、手放してあげる必要があります。そして、鎧の中に隠れている気づいていない思いに気づき、思い込みの誤りを修正しておげます。さらに、新たに真実に自己を守ってくれる真実の守護神を見つけ、親しむ必要があります。その真実の守護神が、誰もの内にある神と、その愛です。

それでも拡大し続けている。


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びっくりすることに、1位が続いています。

昨日のことでしたが、いいしょうがちでーびる。旧正月が明けました。祝福のように美しいお天気で、奥武島の漁港の船に旗が瞬くように光っていました。

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私は日常の多くを、人間について考えながら過ごしています。今であればやはり、311以降とても大きな問題が噴出している日本という国全体の今と行方のことが心にずっと在るというのが正直なことです。少し前から日本には戦争に近づこうという動きがあります。戦争が終わる度に、もうゴメンだと何度となく人間が心に刻んできたはずなのになかなかそれは消滅しません。

以前は21世紀こそは平和な世界になるだろうと漠然と望んでいました。しかし21世紀の幕開けはNYのツインタワーの爆撃でした。

それ以降もイラクとアメリカの戦争と、日本の派兵があり世界では相変わらず紛争が絶えることなく起こっています。

しかし、それでも私は人間は確実に着実に進化していると感じています。そしてその進化は無限に続くと確信しています。

いろいろな毒出しが起こり、潜在的に隠れていた不調和は、潜む事ができずに浮上してきています。どんどん明らかにし、情報を共有し、そして古い習慣を手放して新しくより崇高なものに対して個々が自己を開いて行くことだけが重要だと感じます。

私は十数年にわたり、潜在意識に変容をもたらすセラピーを行ってきました。この体験を文字にするのは本当にもどかしいものです。あまりに形而上過ぎて言葉に降ろすと情報量が多く複雑すぎるのです。

私は数多くの奇跡的な体験をしています。奇跡というのは偶然で稀有な産物のことではなく、人間の過去の集積から来る知恵では計り知れない超越的な進化の顕現のことで、神の愛が地に降りたものとも言えます。神の日常は人間には奇跡なのです。

人間は、さっきまで『あれ』を信じ、『あれ』でなくてはならないと思い込み、『あれ』以外に解決策はない、と疑わず、『あれ』が最も価値の高いものだと感じてやまなかったというのに、一瞬にしてその『あれ』を手放してしまうことも可能なのです。

そして、『あれ』を手放すことでより自由で満ち足りた自己を体験することができます。これは自己が拡大された結果です。

そして霊的な成長というのはこの連続です。

人間はこの連続を体験してきています。時に目に見えて現れなかったり長いスパンでしかそのイベントが起こらないと、まるで後退したり、或いは同じ所をグルグル廻っているように感じられることもあります。

生命というものが肉体のことだけだと信じてしまうと、進歩しない人生というものあるかもしれません。しかし、魂として不滅の生命を生きているのが人間なのだと仮定してみると、私たちは勇敢に全身し続けています。賢くなり、賢さ故にエゴの罠にはまり、そのカルマを経てまたそれを解脱していきます。途方もない小さな一歩の繰り返しにより私たちは今ここまで来ています。

人間のこの姿を目の当たりにする私は、人間って素晴らしいと思ってます。いい面ばかりという意味でも、いいところばかり見ているわけでもありませんが、それでも素晴らしいと言えるのはこの人間の意識の仕組みすべてがあまりに広大無辺であり精密であり神すぎるという真実においてです。

未だ多くの人がこの仕組をほとんど或いはまったく知らずに、知識や文明だけに酔いしれながら生きているかと思うと本当にもったいない、と感じます。それぞれの人の中に神のシステムがあり、そのシステムによって生かされていることを多くの人が知るようになればどんなにすごいことになるでしょうか。

恐らく第一には、多くの人が自分を尊ぶということがどんなことなのかわかるようになるでしょう。自分を尊ぶ、他者が尊いものであるように。そうなると、自分と他者を比較して自分や他者の価値を決めるというようなことが無意味だということがわかると思います。

人間は神の前で平等だなどと言われますが、その意味は平等な権利があるというよりは、神の前に並んだら人間の個々の差なんてどんぐりの背比べくらいに些細だという意味だと思います。どんぐり同志であれこれ批判したり他のどんぐりと自分を比べて自分を裁く暇があったら、神だけを見てあんなふうになろう、と努力するほうがはるかに無駄がありません。神の目線から自分を眺めてみたら小さすぎて点にしか見えません。そしてどの人を見ても同じくらいの点にしか見えないわけです。良い面も悪い面も、どっちも大差ないのです。

しかし、最初は点であれ「よし、神というお手本を見て、自己意識をお掃除して世界を拡大する努力をするぞ」と決意した人というのは圧倒的な変容を遂げ、またその恩恵を受け取ることになります。恩恵とは、拡大されることによって、より愛することができる存在になれることです。

神は無限に愛します。その神の資質を自己の中に有することができるように、近づいて行くことができます。愛以上に強い原理、法則がないという真実を、人は人生の中で体験していくことになります。

よく「もっと愛されるあなたになる」などというスピリチュアルビジネスのキャッチフレーズがありますが、もし自己を拡大した体験がある人なら、誰があなたを愛するかは問題じゃない、自分が愛するかどうかだ、というふうに思うはずです。愛しているという状態こそが魂のあるがままの姿なのです。