死者の声を聴き続けて

前世療法のセラピストをしていての恩恵は自分にとって計り知れない。それは言ってみれば死者との対話だ。死者と対話することにどんな意味があるだろう。

死者は人生を終えているがゆえの達観した視野を持つ。それは時には後悔、悔恨などの心情であるかもしれない。近しい人の人生を賭した悔恨の情に、私たちは耳を傾ける価値がある。

私たち人間が祖先や先人を崇拝するのもきっと、そのあたりにわけがあるのだろう。常に生き死にをかけた淵に立たされている私たちの肉体意識は時として、いやほとんどの場合において、全体というものを見失っている。

私が、ある次元において過去世というものは確実にあると実感するのも、本当のところこの生の使者の声に深い真実味を感じるからだ。

数多くの生の死者の声を拝聴するなかでも忘れられず繰り返し私をなぞる声がある。それは、第二次世界大戦のおそらくアウシュビッツ収容所でガス室に送られた少女の声だ。彼女はガス室の中で死にゆきながら「死ぬのはこわくない。この中(同じガス室)によく知っている人がいないのが救いだ。その人たちが苦しむのを見るのは辛い」と言った。自分といういのちが終わろうとするときに切実に思うのはそういうことなのかと、揺さぶられる。それは本当に死にゆく人にしか言えないセリフのように感じられる。

例えばそんな声は私に、生きるとはどういうことか、どのように生きるべきなのかということを切々と伝えてくる。こんなにも多くの死者の声を私はどうしても無駄にしたくないと心から思う。

死者の声は決して神の声ではない。それはある一方から見た真実の側面を物語っている。同じように私たちも、この世で肉体とともに生きている限り、物事のある側面しか実際に触ることはできない。

私たちがものごとに行き詰るのはいつも、一方の側面しかわからなくなりそれがすべてのように錯覚してしまったときだ。私たちは常に一方しか体験できない。だからこそ、ものごとが本当に行き詰るということはあり得ないのだと私は確信している。

ガス室の少女は「次は戦争のない国に生まれようと思って、この国に来た」と言った。彼女からみたらこの日本は天国に等しい世界かもしれない。

それでも私たちは常にあらゆる側面を学ぼうとして、苦しみと喜びを交互に、あるいは交互だということすら忘れるほどどちらかに浸りながら生きる。

あまりにどっちも見てしまうと、それはどっちも本当じゃないんだと悟るようになるんだろう。よく体験することが真実だ、というようなことをいう人もいるが、体験するだけではなにもわからない。

どっちかではない、どっちでもない、それが魂の世界だ。

賢明な死者は必ず自己を省みる。どんなすばらしい行為をしてもあるいは全力で闘っても、おそらく真理を悟らない限り、神をみつけない限り私たちは充分に生きることはできない。なぜなら私たちは魂であり、魂はそのおおもとの神だけを探し求めているからだ。やがてそこに還ることが道だからだ。

ほしいものを全部手に入れるべく生きれば後悔しないと思っている人もこの世には多いかもしれない。なすべきことを全うしたら後悔がないと思っている人も多いだろう。でもそれは「ない」ということを死者は切々と語る。行為では内側を満たすことができない。それを一体どうやって伝えよう。

いや、多分、私が思い知ればいいだけなんだろう。私はそれを共有できることをただただ喜んで生きればいい。私に与えられたそれが世界なのだ。

究極のTHE REIKI

このたびまたおひとり、ライタリアンレイキのアチューメントの全工程を完了されました。ライタリアンレイキのアチューメントは、臼井レイキマスターティーチャーの、その先からスタートする、いわゆる発展形なんて言われるレイキヒーリングシステムの、いわば究極とされていて私も同感です。

レイキを学び日常にどんどん取り入れるに従い、もっともっと知りたくなるし、知らないことが明確になっていく意識とエネルギー、そして人間という存在について。

私自身がレイキに取り組むうちに、レイキって本当はこうなんじゃないかしら、誰かも同じことに気づいたり思ったりしていないかしら、と探して見つかったのがライタリアンでした。そしてその扉を開けたら。やっぱりそうだったか~!(笑)このやっぱりそうだったか~!という発見は本当に楽しいものです。古くから奥底では本当は知っていたことに、気づき、導かれ、出会う。真理の探究ってまさにそういうこと。

ライタリアンレイキを深く学ぶと、そこにすべての答えがあるとわかる。それは一度に全部わかるものではなくて、体験とともに、時間とともに、出会っていくものであり、そのように導く導き手こそがレイキだ。

レイキは、その根源や本質がわからなくても実際に使って役立てることはできる。伝授されたその日から使えるという優れものだ。電気というものがどんなシステムか、なぜそのように働くのか理解できなくても電化製品を使いこなすことはできるのと似ている。その恩恵に日々預かるほどに、その贈り物の贈り主についてもっと知りたくなる。(それって愛だと私は思う。)

私たち人間という存在も同じだ。人間とはなにか、命とは、人生とは、その存在とはなにかを知らなくても、お母さんから面倒をみてもらい、見様見真似で生き方を覚え、その延長に生きることはできる。しかし自分とは本当はどんな存在なのか、ということを問い直す機会に出会い、それを知り、それを生きる人は少ない。

私たちの肉体意識は、デフォルトでお母さん仕様にセッティングされている。お母さん仕様に不具合を感じたところから多くの人は自分への問い直しが始まる。最初は自分の出来損なったところの修復から始まるかもしれない。その工程は復讐にも似てとても辛い。

出来損なった(と感じている)自分とお母さんが深く関係している、ということすらちょっと以前にはわかっていなかった。今はそれを突き止めて、そこで苦しんでいる人も多い。でも真実は、それはただ、ひとりの人間が当然ながら万能ではないということと、お母さん仕様を卒業することが人生の本当のスタートだと言ってもいいほどシンプルだということ。

すべては神という生命の源からの贈り物だとはわかっていても、あるいは自分は本当はスピリットなのだ、とは受け入れていても、実際にスピリットとしてこの世を生きるってどんなことなのか、ということはほとんど誰も知らない。

それでいい。本当は重々わかっている真実を、実際に本当に生きてみたらどうなるか、というゲームに私たちは参加している。
暗闇を手探りで突き進むもいいけれど、そこに明かりがあり、地図があり、そして真理というお手本と、愛という完全無欠な秩序と、神というこの上ない無限の力とともにこの世を体験することもできる。

私はようやく最近になって聖霊とは何かがわかった気がする。父と子と聖霊との御名において、の聖霊。RUACHの聖霊。レイキは聖霊のちからそのもののように思う。と、そこまで考えてはっと気づいた。霊気だもの、当たり前か。その名前の通りだったのか。

さて、以下は、臼井霊気の伝授をお受けいただいている方からいただいたご質問へのおこたえです。その方へ伝えたい、という強い想いが言葉にさせてくださいました。いつもながら、ご質問いただいたことにとても感謝しています。手直しを加えてここに記させてください。


レイキヒーリングの世界ではレイキの根源は「宇宙の生命エネルギー」と説明されています。それゆえに、多くの人が空から降り注ぐイメージを持たれます。臼井レイキのマニュアルにもそのように連想させるような記述があります。例えばレイキシャワーのような。

しかし宇宙の根源的な生命エネルギーとはなんでしょうか。それは空や宇宙空間にあるものでしょうか。あるいは自然界の大気、鉱石、植物や陽光のなかでしょうか。それでしたら私たち人間という自然動物の生体の中にもそれはあります。しかしレイキは何かしらの物体のエネルギーを借りたり移動させるというものではありません。それは無限の、源から来るものです。それゆえに私たちはそのエネルギーを無限に使っても何かがすり減ったり目減りすることがありません。むしろ、使うことによって広がり、根付くのです。

根源的な宇宙エネルギーというのは、実は意識の中心にあります。私たちの意識は顕在意識、潜在意識、超意識、宇宙意識、というふうに大きく4段階に分けて考えられています。この最後の宇宙意識というのは、無限で、完全で、すべてで、一つである、という性質です。私はこれを通常「内なる神」と呼んでいます。

すべての物象の背後、あるいはその中心には、この内なる神が横たわっています。レイキで言う宇宙の生命エネルギーというのはこの宇宙意識ことであると私は理解しました。

臼井 甕男さんがブッダとキリストを探求し瞑想して授かったレイキエネルギーは、根源なる神からのちからを人間が使って自己意識を浄化し、あらゆる生命を癒し、活性化し、調和させ、そして「悟りへの道標」として(レイキサードのマニュアルに明言されています)、その歩みの杖として携えることができるように人間界に具現化し降ろされた技法です。

レイキは私たちのすべてがそもそも持っている力、根源なる神の力とつながる方法です。

霊気、という字は当て字でもなんでもなかったのです。霊(=根源なる意識・宇宙意識・スピリット)の気、つまり神の呼吸、息吹がレイキです。

これを聖霊と表してもいいかもしれません。聖霊とは、根源なる神=真理と、この次元(幻想、無常、3次元)をつなぐもの、と言われます。つまり私たちの祈りとはどんな時もそこに届けられるべきものなのです。

どうして遠隔ヒーリング・遠隔アチューメントというものが可能なのでしょうか。遠い宇宙や空からエネルギーを呼び込み、更に今度は遠く離れている誰かのところまでそれを送る、などと言うイメージはなんと遠回りで頼りないものでしょう。多くの人が自分の力に疑問を抱いています。本当にそんなパワーが自分にあるのだろうか、と。

そうではなかったのです。私たちは内なる神にヒーリングを依頼すればいいのです。内なる神はひとつですから、私が内なる神に依頼すれば、○○さんの内なる神として行ってくれます。私たちは内なる神によってつながっています。地球の裏側だろうが宇宙の果てであろうが、神はひとつですから、神が無限であるがゆえに、私たちは完全に時空を超えてそれを伝えることが可能なのです。

ですから私はレイキをするときにはハートの内側にそれを伝え、自己ヒーリングの際にはハートからのバイブレーションをただ全身に受けるようにしています。時には地球に感謝し、マスターや天使やすべての聖なる存在に感謝しますが、しかし依頼する対象はひとつなるものです。

レイキのパイプ、とよく表現されますが、レイキは神への直通電話だと思っています。いつもいつも電話していると、いつの間にか番号を覚えてしまう。そのうちボタンを押すより早くつながっている。そのうち、あれ?電話本当に必要?思うだけでよくない?だって相手は神だから、というふうになっていきます。

レイキの目指すところはそういうところです。いつもどんなときにもどんな状況でも、即、神につながっている、という信頼と安心が完全に自己の内側に根付くまで、繰り返すことです。

この仕組みをお伝えすると、多くの方は安堵されます。ああ、それならできそう、とおっしゃる方がほとんどです。みなさんどこか、無理をなさっているんだと思います。人間は自分が自然の生き物だということも、神に最も愛されているということも忘れています。

私たちは、神のように無限ではないですが、しかし神のように与えることができる生き物です。そのためにレイキがあります。まずはその愛をあふれんばかりに受け取り、その無限の泉の水をあなたが飲みなさい、そして、それから周囲の人に与えなさい、と。神は私たちがレイキを「再発見」できるように私たちに喚起しました。

感謝とともに
AZU拝

愛とはなにかという気づき

今日のセッション中に私の口から出てきた言葉を記します。私にとっても新鮮で、驚きと「ほんとにそうう?」という問いかけが同時に出てくる不思議おもしろい体験でした。

愛とはなんでしょうか。愛に似たもの、あるいは愛からもたらされたものを私たちは数多く体験し知っています。けれども愛とはなんだろう、という問いに答える本当の言葉に私たちはなかなか出会うことはありません。

今日、また神について楽しい話に夢中になりながら私は、魂がまったき光である神に向かって突き進んでいくビジョンを観ていました。私たちの誰もの内に在り、そのすべての魂が向かうふるさとの光。みなもとの光。

私たちは人間という肉体を乗りこなすべく夢中で肉体と一体化するうちに、肉体こそが自分だと錯覚します。そして肉体の法則を学び肉体の世界観を身に付けます。その限界と有限性という孤独の淵に立ち、やがて本当の自分を思い出し始め、ふるさとの光を求め始めます。

なんとかこの世界、この社会で乗りこなそうと必死で握りしめていた自己意識という操縦桿を、「手放す」という選択があることを知ります。

しかしそれを手放すためには心の中に、ひとひらの信頼というものが必要になるのです。確信はなくとも、理解はできなくても、道理がわからなくても、その握りしめた指をほどき掌を広げ捧げる対象が。そうです。私たちはそのまったき光に向けてその掌を広げ捧げるのです。

その信頼という原動力によって、魂が私たちを導き始めます。光に向かってただうなりを上げながら猛然と神の懐へと還ろうとするのです。

「それが、愛なんだと思う。」

魂が神に向かって動くちから、それが愛。

言ってしまってから「それほんとう?」と何度も反芻したけれど、なるほど、それかもしれない。

分離したと見せかけて本当はひとつだった、というところへ戻っていく、その動き。その動きそのもの。

そもそも完全であるものの一部が、完全という全体へと戻っていくちから。

ひとつになるちから。

それが愛なのかもしれない。多分そうだ。

私たちを癒し修復するちからとはそれしかない。分離という幻想の傷を、他者という加害者と、被害者という自己。あるいはその逆。あなたがそうするからわたしがこうなった、というストーリー。別の誰かという存在に脅かされる自分。恐れは防御を生み、攻撃を仕掛ける。攻防する心は常に他者を断罪し続け、結果自己を苦しめる。他者に罪があるということは自分にも罪があると訴え続けることになるからだ。

それらすべての陰影を消し去るものは、まったき光、つまり相反する対極を持たないものだけだ。光の中に影は、闇は存在することができない。そして防御のないところに影を作り出すことはできない。自己意識というのは防御が作り出した陰影でしかない。その陰影を見て私たちは更に恐れている。自分が作った幻影のおばけを見て。

また愛に身を委ねるとき、肉体であろうとする自己意識は非常にそれを恐れる。恐れは愛を妨げるが、愛そのものをも恐れる。自己意識が自分を失うことを恐れるのだ。愛という光りの中に自分が溶けていくのを。

人が愛を求めるのは、孤独から逃れたいからだけかもしれない。そこに崇高な理由はいらない。しかし愛を求める心はいやおうなく私たちを光に、神に向かわせる。

神はすべてに遍在するが内側に神をみつけない限り人は神をみつけることはできない。外側というものそのもが自己の創った幻影であるから。存在しないもののなかに神は存在しない。神は真実であるがゆえに、外側という幻想から私たちを目覚めさせる。神は実際には一つしかない。その一つをみつけたときに、すべてはその一つの中にあったとわかる。

内と外という隔たりを作っていたのも自分だが、内を見ない限り外に世界があるという錯覚から自由になることができない。ゆえに自己は世界から分離し続ける。

私は自分を始め、傷ついた人びとを通して神をみた。傷が痛々しいほど、神が、愛が、真理が、それをみごとに癒すところを目の当たりにすることによって。夢の中で、これは夢なんだと叫ぶことで夢から覚めるように。傷ついて、怒って、悲しみにくれてたまま、私たちは神をみつけられる。夢の中でそれが夢だと気づくことができるように。私たちはなにひとつ否定する必要も拒絶する必要もない。ただ、今あるところに、今いるところに、今置かれているところに、今与えられているところに、神をみつけられるよう求めればいい。

そう求めることが愛なのだ。そう求めさせる引力が、愛なんだと思う。