重要なお知らせ

みなさんこんにちは。
いつもAZU WORLDをお読みくださりありがとうございます。

大変恐縮ですが、このブログを今後、私のホームページ いやし.com のブログページに統合させていただきたくお知らせいたします。

ブログページは http://いやし.com/category/azu-world/ です。ここをクリックして移動できます。

ご登録いただいている方は大変お手数ですが、お時間のある時にご変更いただければ幸いです。どうか今後ともAZU WORLDをよろしくお願いいたします。

今日はトータルヒーリングスペースRUACHより、沖縄勉強会と、講座開設のお知らせをいたしました。どうぞご高覧ください。

http://いやし.com/ 1月31日の記事へ

このURLは当分の間維持しますが今後はすべて、いやし.com にて更新いたします。どうか今後ともAZU WORLDをよろしくお願いいたします。

RUACHより、お知らせとご報告です

こんにちは。いつもお読みくださってありがとうございます。

今日はお知らせとご報告があります。


 ◆勉強会のお知らせ
昨年末に行わせていただいた勉強会をRUACHにて再び行いたいと思います。

■内容と目的 心のセラピストAZUがこれまで探求しまたセッションで学ばせていただいた叡智をみなさんと共有し、ともに探求を深めることが目的です。

みなさんのご興味に沿って自由に、有意義にご一緒に過ごさせていただけるよう進めてまいります。セッションメニューや内容、また施術者にご興味のある方、はぜひお気軽にご参加ください。

■期日 2月11日土曜日 ※祝日 14時30分~17時

■ご参加費 3500円

■最小催行人数 3名様 最大5名様までとさせていただきます。人数に満たない時は延期の可能性がございますがご了承ください。

■場所 トータルヒーリングスペースRUACH

■ご予約・お問い合わせ ruach@live.jp  ℡098-948-3925

※初めての方は、お名前、生年月日、お電話番号、メールアドレスをご明記ください。セッションご体験者の方はお名前だけで結構です。

※テーマやご興味あることなど、よろしければ合わせてご連絡ください。


◆ヒプノセラピストのための講座を始めます

長い準備期間を経ましたが、講座を始めたいと思います。追ってセッションメニューにも掲載いたしますが、こちらにご報告します。いつものことなのですが、先にご依頼をいただき、ようやく立ち上がった次第です。後押しいただき本当にありがとうございます。

私が初めてヒプノセラピストの養成講座を受け資格を取得してから、ちょうど20年が経ち、またプロのセラピストとしての始動からも15年以上の年月が経ちました。

この仕事には常に新しい発見と喜び、学びがあります。皆さんが必要としてくださり役立ててくださること、また友人、夫、そして内なる指針がいつも導き方向付けてくれたことに本当に感謝がつきません。

ヒプノセラピーは、人間の心、意識、また脳の仕組みに基づいた非常に理論的で理にかなった心理療法である一方、その深みでは、インナーチャイルド、過去世、ハイヤーセルフ(高次の意識)に及ぶ非常に神秘的な部分にまで及ぶ、自己探求のツールであります。

ヒプノセラピーは、誘導瞑想と原理は同じです。催眠という名前がついていますが、これはあまり適切だとは言えません。私はよく、二人でする瞑想、と呼んでいます。

瞑想とは内なる神、つまり超意識、宇宙意識への到達を目指す技法ですが、ヒプノセラピーではその前段階として、まず潜在意識への刷り込み、つまり古い概念、思い込み、滞った感情のエネルギーを解除解放し、より高次の意識(愛)を深く受け入れる準備をしてくれます。

この変化変容は一時的ではなく、永続可能なものです。私が一生もののセッションを目指す根拠でもあります。

通常のヒプノセラピー(催眠療法)はここまでを網羅することなく、変性意識状態(脳がリラックスした状態)でネガティブな暗示の上に、ポジティブな暗示を上書きする方法などが知られています。

しかし潜在意識がもっとも多くを吸収し形成されるのは幼少期と言われ、その時期にベースとなっている観念はそれぞれ違っています。一見ポジティブな言葉の暗示がどのように意識に届けられるか、という点で効果には差があり、またその効果が一時的なものとみられる原因はこの辺りにあります。

また、ネガィテブとポジティブというのは相対の世界です。その基準は時と場合により定かではありません。その時々でより良い変化は望めても、恒久的な目的に向けての前進とはまた違っています。

人間にはそもそも、本質的な叡智がすべての人に備わっています。それは生命力、自然治癒力などと同じように、人を本質的な前進に向かわせる力でもあります。プラスの暗示を上書きする以上に、古いプログラミングをリセットすること(自己意識の浄化)こそが、この本質的な叡智を迎え入れるのに対して重要だと私は学んできました。

本質的な叡智とは、恒久的に人を幸せに向かわせるものです。それにはこの世の2元的な価値観を超越した、高次の愛という価値基準が不可欠です。

私は数々のセッションの中でその叡智を体験と意識そのものによって享受してきました。そして自分が教わってきたことをぜひ次の一人へと伝えたいと願うようになりました。

一般的な講座では学びきれないと思われる細部にわたり、ご本人の現状までの意識とエネルギーへの認識と浄化を加味しながらのセッションを含めた講座を開講いたします。

ご興味のある方はぜひご検討の上ご相談ください。

ベーシックコース(必須)※RUACHからの認定書をお出しします。

  • 全体で50時間前後を目処とします。ただし、これまでの学びにより個人差がある可能性があります。お話合いの上必要が認められた場合には延長の可能性もあります。
  • 最初にご一緒に質疑応答しながら内容とペースなど全体の計画を立てます。すでに学ばれている部分などを伺うことで、重点を絞ります。
  • 料金はスピリチュアルカウンセリングの価格帯と同等とします。毎回のお時間や間隔など、ご自身のペースで受講が可能です。

アドバンスコース 

  • ベーシックコースを満了した方の補足とプラスアルファを目的とします。
  • より実践的な部分にも具体的なアドバイスをいたします。
  • 料金、時間などはベーシックコースに準じます。

ご質問やご希望、お申込みなど、ご連絡をお待ちしております。

何卒よろしくお願い申し上げます。

豊かさは、愛することから

理想や意志を持つ人ほど、自分のコントロールができるようにならない限り葛藤が大きいものだと思います。思慮ある多くの人が自分を簡単に愛せないのはそこにあるような気がします。

トラウマがあるとかないとか、インナーチャイルドの状態に関わらず。(インナーチャイルドは自分史のすべてですから、見直しをするまでの自分の多くはそこから成り立っているのはもちろんのことですが。)

理想と意志に感情とからだがついてこないイライラ、これは放っておけば一生つきまとう人間のジレンマでしょう。放っておいたなら、その人にどんなに崇高な思いがあっても、心の中が平安に満たされることはないでしょう。むしろ自己のなかの分裂は時とともに深まっていくことと思います。

崇高な意思とうらはらに心の中ではいつも不平不満が渦巻いている。いつも他者かもしくは自分を攻撃している。もしくは諦めや我慢とともに固まり閉ざされている。

この状態をチャクラで見ると、スピリチュアルに目覚めている方には往々にしてあることですが、下3つのチャクラが閉じているとか弱い、というふうに出ていることが多いです。「地に足がついていないんです」などと自覚なさっている方も多いけれど、言葉のイメージのように単にふわふわしているということだけではなく、

例えば自分の在り方を常に周りとの兼ね合いで測ってしまうというようなことや、どこにいても求められる以上にがんばってしまう、さらに求められないと居心地が悪い、つまり役割がはっきりしないと楽に居ることができない、人のことは許せるけど自分にはもっともっともっと多くを求めてしまうとか、だけど周囲からの理解は欲しい、賛美とは言わずとも少なからず認めてもらいたい、或いは許可がほしい・・・など様々な意識として現れます。まさに葛藤です。

これは30代のころの考察ですが、年を取って寛容になっていく人と偏狭になっていく人がいることに気づきました。更に掘り下げれば寛容に見えて諦めが強く閉ざしている人もいるかもしれません。本当の意味での寛容は、赦せることでしか生まれないのでしょう。

霊的成長、などというと仰々しいですが、私は単純にどっちに向かうかの二択だな、とその頃思いました。私は思春期から体調も精神状態も不調で不安定だったため、20代後半から自分を立て直し始めましたが、「次の山場は更年期だ。そこは自分の取り扱いマスターになって苦しまずに乗り切るぞ」と心に誓ったものです。そして自分との付き合いに対して本当に様々な実験を施してきました。

人間の肉体的な健康や寿命はおそらくホルモンに牛耳られていると私は今では勝手に確信しております。例えば女性ホルモンが一生の間に分泌される量って、ティースプーン1杯だと昔何かで読んで驚愕しました。総量でそれだけのものが、心身にどれだけの影響を持つか、というより女性のからだの一生をコントロールするのです。すごいと思いました。

この微細な采配は、心の在り方、自分の扱い方、つまり自分への心のエネルギーの向け方でまったく違うものになると、私は仮設を立て検証し、ほとんど納得に至っております。

また、自分が自分の思うようにならない、という体験は、子供の頃の些細にみえる兆候(例えば、宿題を後回しにしてしまう、毎日こつこつ予習復習ができない、忘れ物をしてしまう、テストでケアレスミスを必ずする、マラソン大会などが非常にプレッシャーである、ノートを最後まで使いきれない、-途中で飽きてしまって-)から始まり、思春期の体重のコントロール不能からはあっという間に不眠、便秘、摂食障害、鬱へとつながりました。

これらは自分への不信感、無価値観、自分自身との関係の溝の最初の兆候だったように思います。この後大人になるとこれらが仕事や自己表現、ひいては経済面、人間関係、恋愛、家族関係など生活と人生そのものへと大きく波紋を広げるようになりました。

これらは成長の過程で誰もが超えるハードルです。人によっては躓きもなく何気なく乗り越えていけるテーマかもしれません。ですが私の場合、どれもが気になり神経質さが増し、傷つきがひどくなり、愛を見失い、人生そのものへの絶望へとつながりました。

そこから回復する際、インナーチャイルドの状態が、すべての人生に非常に重大に関わっていることもわかりました。

世界を愛すること、他者を慈しむこと、自分を愛することは同じです。どこから始めてもいいのかもしれません。しかし、どれか一つだけ、あるいはどれかができないでいる間は、本当はどれもできていないのと同じなのだろうと私は思います。どれかが気になったときには全体を見直してみることが、人生を豊かに生きる一番の近道と言えるでしょう。

欠けていることへの気づきは、より全体性へと統合されるチャンスを与えられていること。それが魂の導きであり、自身の真実の道なのだと感じています。豊かさへの道は、得ることではなく、不全性をみつけ、思い込みを手放すことによって必ず開けます。どんなときでも。

豊かさは、愛することから

理想や意志を持つ人ほど、自分のコントロールができるようにならない限り葛藤が大きいものだと思います。思慮ある多くの人が自分を簡単に愛せないのはそこにあるような気がします。

トラウマがあるとかないとか、インナーチャイルドの状態に関わらず。(インナーチャイルドは自分史のすべてですから、見直しをするまでの自分の多くはそこから成り立っているのはもちろんのことですが。)

理想と意志に感情とからだがついてこないイライラ、これは放っておけば一生つきまとう人間のジレンマでしょう。放っておいたなら、その人にどんなに崇高な思いがあっても、心の中が平安に満たされることはないでしょう。むしろ自己のなかの分裂は時とともに深まっていくことと思います。

崇高な意思とうらはらに心の中ではいつも不平不満が渦巻いている。いつも他者かもしくは自分を攻撃している。もしくは諦めや我慢とともに固まり閉ざされている。

この状態をチャクラで見ると、スピリチュアルに目覚めている方には往々にしてあることですが、下3つのチャクラが閉じているとか弱い、というふうに出ていることが多いです。「地に足がついていないんです」などと自覚なさっている方も多いけれど、言葉のイメージのように単にふわふわしているということだけではなく、

例えば自分の在り方を常に周りとの兼ね合いで測ってしまうというようなことや、どこにいても求められる以上にがんばってしまう、さらに求められないと居心地が悪い、つまり役割がはっきりしないと楽に居ることができない、人のことは許せるけど自分にはもっともっともっと多くを求めてしまうとか、だけど周囲からの理解は欲しい、賛美とは言わずとも少なからず認めてもらいたい、或いは許可がほしい・・・など様々な意識として現れます。まさに葛藤です。

これは30代のころの考察ですが、年を取って寛容になっていく人と偏狭になっていく人がいることに気づきました。更に掘り下げれば寛容に見えて諦めが強く閉ざしている人もいるかもしれません。本当の意味での寛容は、赦せることでしか生まれないのでしょう。

霊的成長、などというと仰々しいですが、私は単純にどっちに向かうかの二択だな、とその頃思いました。私は思春期から体調も精神状態も不調で不安定だったため、20代後半から自分を立て直し始めましたが、「次の山場は更年期だ。そこは自分の取り扱いマスターになって苦しまずに乗り切るぞ」と心に誓ったものです。そして自分との付き合いに対して本当に様々な実験を施してきました。

人間の肉体的な健康や寿命はおそらくホルモンに牛耳られていると私は今では勝手に確信しております。例えば女性ホルモンが一生の間に分泌される量って、ティースプーン1杯だと昔何かで読んで驚愕しました。総量でそれだけのものが、心身にどれだけの影響を持つか、というより女性のからだの一生をコントロールするのです。すごいと思いました。

この微細な采配は、心の在り方、自分の扱い方、つまり自分への心のエネルギーの向け方でまったく違うものになると、私は仮設を立て検証し、ほとんど納得に至っております。

また、自分が自分の思うようにならない、という体験は、子供の頃の些細にみえる兆候(例えば、宿題を後回しにしてしまう、毎日こつこつ予習復習ができない、忘れ物をしてしまう、テストでケアレスミスを必ずする、マラソン大会などが非常にプレッシャーである、ノートを最後まで使いきれない、-途中で飽きてしまって-)から始まり、思春期の体重のコントロール不能からはあっという間に不眠、便秘、摂食障害、鬱へとつながりました。

これらは自分への不信感、無価値観、自分自身との関係の溝の最初の兆候だったように思います。この後大人になるとこれらが仕事や自己表現、ひいては経済面、人間関係、恋愛、家族関係など生活と人生そのものへと大きく波紋を広げるようになりました。

これらは成長の過程で誰もが超えるハードルです。人によっては躓きもなく何気なく乗り越えていけるテーマかもしれません。ですが私の場合、どれもが気になり神経質さが増し、傷つきがひどくなり、愛を見失い、人生そのものへの絶望へとつながりました。

そこから回復する際、インナーチャイルドの状態が、すべての人生に非常に重大に関わっていることもわかりました。

世界を愛すること、他者を慈しむこと、自分を愛することは同じです。どこから始めてもいいのかもしれません。しかし、どれか一つだけ、あるいはどれかができないでいる間は、本当はどれもできていないのと同じなのだろうと私は思います。どれかが気になったときには全体を見直してみることが、人生を豊かに生きる一番の近道と言えるでしょう。

欠けていることへの気づきは、より全体性へと統合されるチャンスを与えられていること。それが魂の導きであり、自身の真実の道なのだと感じています。豊かさへの道は、得ることではなく、不全性をみつけ、思い込みを手放すことによって必ず開けます。どんなときでも。

超人のすがた

「私たちの真の強さは自己の明け渡しからくる」
これは敬愛するスリ・ダヤ・マタさんの言葉。

そう聞くと、誰にでも何にでも従順に言いなりなイメージを持つ方もいるかもしれませんが、
もちろんそうではありません。
明け渡す相手は神しかありません。

「夜も昼も、何をしていても、心の背後で常に神のことを考えているようになるまで、あなたの心のすべて、思いのすべて、魂のすべてで、神を深く愛してください。」

究極、瞑想を何のためにするかと言えば、
そうなるため、なのだと思っています。
自己を明け渡して、内側を神で満たしておく。
そして、それを、生きる。ただそれだけ。

瞑想の習慣のない方からみるとおそらく気持ち悪い話ですよね?
私はもちろんそう志して日夜励んでいますが、
でも暮らしはいたって普通の感覚です。

例えば些細なことが心にひっかかって落ち着かなくなること、
沖縄で教えていただいた言い方だと「さーさーする」ことなんて、
いくらでもあります。

さて、そのさーさーを追っかけて分析をしたところで、

それはほとんど解決しません。
なぜだろう、どうしたらいいんだろう、なにがいけないんだろう、
あれかな、これだろうか、いやそんなはずはない。

これをやっているうちにだいたい行き着くのは
「ああもう、こんな自分でいやだな」「自分ってやっぱりだめなんだな」
「ああ世の中ってめんどくさい」などという境地です。

ヨガナンダ先生はこうおっしゃいます。
「自分の考えを見張っていなさい。どんなに多くの時間を、無駄な考えや、愚かな考え、否定的な考えに費やしているかを理解しなさい。そしてどのくらいの時間、自分が神のことを思っているのか見守りなさい。」

さーさーする自分について真剣に考えていたとしても、
それは自分と向き合うということとは違う、と
気づいている人はどれくらいいるでしょうか。
自分のことや他人のことを一生懸命思っていたとしても、
思っている自分が神から離れてしまっている、ということこそが、
気づくべきことだということなんですね。

またそこでいろんなわながあります。
じゃあ悩まないで明るくふるまっていることがいいことなんだ、
ポジティブに考えればいいんだ、という方向に向かうこともあります。

いえいえ、それもやはり、意識は外に向かっていることになります。
内面は放っておいて、外側への対処に向かっているんです。

神は内面にしかいません。この世においては。ある次元においてはすべてにいらっしゃいますが。
ですから私たちが神を思うときは内面に向かい合うしかありません。
神を体験するのも実感するのも、私たちの内側を通してしかできません。

自己と向き合う、というのは究極神と向き合うことに他なりません。
自己の本質が神だからです。

はっ、そうだった、と、さーさーから離れて神に戻ってきただけで、
さーさーは幻想となって去ります。

平安に戻れば、その原因やきっかけはもう存在しません。存在する意味がありません。
それより、戻ってきた喜びと感謝があります。
その中からさっきまでの自分を観察し、学ぶこともできます。
平安に戻ってきてこそ、初めて学びができます。

こんな、天国と幻想の間を、お皿を洗ったり床を拭いたりしながら
行ったり来たりしております。
夫と神について話し合う時、セッションの時、自己ヒーリングと瞑想の時が、
一番神を実感できる時間です。
幸いなことに、ここに時間を費やせる生活をしていることが何よりしあわせに思います。
それを選ぶことを選べた自分になれたことが、喜びです。

超人のすがた

「私たちの真の強さは自己の明け渡しからくる」
これは敬愛するスリ・ダヤ・マタさんの言葉。

そう聞くと、誰にでも何にでも従順に言いなりなイメージを持つ方もいるかもしれませんが、
もちろんそうではありません。
明け渡す相手は神しかありません。

「夜も昼も、何をしていても、心の背後で常に神のことを考えているようになるまで、あなたの心のすべて、思いのすべて、魂のすべてで、神を深く愛してください。」

究極、瞑想を何のためにするかと言えば、
そうなるため、なのだと思っています。
自己を明け渡して、内側を神で満たしておく。
そして、それを、生きる。ただそれだけ。

瞑想の習慣のない方からみるとおそらく気持ち悪い話ですよね?
私はもちろんそう志して日夜励んでいますが、
でも暮らしはいたって普通の感覚です。

例えば些細なことが心にひっかかって落ち着かなくなること、
沖縄で教えていただいた言い方だと「さーさーする」ことなんて、
いくらでもあります。

さて、そのさーさーを追っかけて分析をしたところで、それはほとんど解決しません。
なぜだろう、どうしたらいいんだろう、なにがいけないんだろう、
あれかな、これだろうか、いやそんなはずはない。

これをやっているうちにだいたい行き着くのは
「ああもう、こんな自分でいやだな」「自分ってやっぱりだめなんだな」
「ああ世の中ってめんどくさい」などという境地です。

ヨガナンダ先生はこうおっしゃいます。
「自分の考えを見張っていなさい。どんなに多くの時間を、無駄な考えや、愚かな考え、否定的な考えに費やしているかを理解しなさい。そしてどのくらいの時間、自分が神のことを思っているのか見守りなさい。」

さーさーする自分について真剣に考えていたとしても、
それは自分と向き合うということとは違う、と
気づいている人はどれくらいいるでしょうか。
自分のことや他人のことを一生懸命思っていたとしても、
思っている自分が神から離れてしまっている、ということこそが、
気づくべきことだということなんですね。

またそこでいろんなわながあります。
じゃあ悩まないで明るくふるまっていることがいいことなんだ、
ポジティブに考えればいいんだ、という方向に向かうこともあります。

いえいえ、それもやはり、意識は外に向かっていることになります。
内面は放っておいて、外側への対処に向かっているんです。

神は内面にしかいません。この世においては。ある次元においてはすべてにいらっしゃいますが。
ですから私たちが神を思うときは内面に向かい合うしかありません。
神を体験するのも実感するのも、私たちの内側を通してしかできません。

自己と向き合う、というのは究極神と向き合うことに他なりません。
自己の本質が神だからです。

はっ、そうだった、と、さーさーから離れて神に戻ってきただけで、
さーさーは幻想となって去ります。

平安に戻れば、その原因やきっかけはもう存在しません。存在する意味がありません。
それより、戻ってきた喜びと感謝があります。
その中からさっきまでの自分を観察し、学ぶこともできます。
平安に戻ってきてこそ、初めて学びができます。

こんな、天国と幻想の間を、お皿を洗ったり床を拭いたりしながら
行ったり来たりしております。
夫と神について話し合う時、セッションの時、自己ヒーリングと瞑想の時が、
一番神を実感できる時間です。
幸いなことに、ここに時間を費やせる生活をしていることが何よりしあわせに思います。
それを選ぶことを選べた自分になれたことが、喜びです。

美しく咲く

昨日のおやすみは久しぶりに庭仕事が少しできました。
ブーゲンビリアと玄関脇のローズマリーを剪定し、裏庭の石垣のくぼみに昨年植えたキダチアロエを収穫しました。

こういう作業って、自分の心にどれくらいゆとりがあるか測れます。
スペースが足りていない時は意欲がないばかりではなく、ちらかっていても目に入らない、スルーされることが多いです。
自分のエリアを小さくして、自己を温存しているんでしょうね。

今年に入って、まだ間もないですが、普段手つかずの「あとちょっと」のところにおそうじ意欲が出てきています。
明らかに昨年とは違う。私だけのバイオリズムなのか、みなさんはいかがでしょう^^

ローズマリーはパンやお肉料理にもべらぼうに合うのですが、今回はお風呂場と寝室に活けました。
アロマとしては緩めるよりはシャキッとする効果が強いのですが、この香りのすばらしさには代えられません。
夫もとても喜ぶので我が家には合っています。

先代のマリーさんは、公園で一枝手折らせていただいたものを挿し木して、道にはみ出すほど育ったというのに、はみ出ちゃうな、どうしよう、と思っている間に一気に枯れてしまいました。調べるとマリーさんには突然天寿を全うされる傾向があるそうです。当代はメイクマンで小さな苗を購入して植えましたが、順調です。

キダチアロエはなんとなく、初挑戦ですが、お茶にしてみようかと思い立ち、スライスして干しました。お日様が今日は陰っていますが晴れたらい1日でできてしまいそうです。棘を取るイメージがあったのですがシュウ酸カルシウムが多いため、と後で知りました。取ったり取らなかったり、で、ついでに葉肉をちょっとつまみ食いしながら、いい加減な仕事です。

植物って、人に観てもらうと圧倒的に元気に、美しく育つと私は常々思っています。東京へ行くと、街路樹やお庭の木がものすごくきれいだな、と感じます。20代のころ善福寺川公園のそばに住んでいてなにより川沿いのおさんぽが好きでした。ここの公園は本当に美しく、その頃です、そう思い始めたのは。東京の公園はいつでも人がいて、求められている感じがするところが多く、その思いを受けて樹も応えるのでしょう。

沖縄では、ここすごいな、と感じるところにはだいたい拝所があります。神との交流の場なんですね。そういう場所の植物も人信仰に応えて荘厳となり神聖な場を創り護ってくれていると感じます。

人間の視線にも想いにも、それだけのちからがあるのだと思います。いいほうへ使いたいものですね。
そのためには何しろ、自分育てと内面のおそうじに尽きます。注いだ分、必ず良い花になります。