すべての道は神に通ず

私がこの世に生きて、悲しみや痛みや苦しみに圧倒されてはじめたのは
高校に入ってから。
そこから最大の苦しみと混乱は20代終わりころまで続いた。

20代後半になって何が変わったのかといえば
精神世界、スピリチュアルという概念に出会ったことだ。

以来自分と協力して自分を創造する作業が始まった。
私が簡単にワーク、と呼ぶのはこの作業のことだ。

それまでは何をしていたのかと言えば
生きることに翻弄されまくっていた。

生きることを具体的に言うなら
たとえば身体、感情、また
知らずに刷り込まれていた思い込みや癖、価値観、世界観など。
それは自分が気づいたらそうなっていたものであって
自分で精査し選び創造したものではなかった。

親から引きついだもの、
DNAや親の価値観、家庭や社会環境、
社会や国家や歴史の影響、
のちになって発見した過去世やカルマと言われるものまで全部、
気がついたら私の中に属していたものだった。

それらは私にとって非常に重たい鎧だった。
いや当時はそれが鎧だとすら思わなかった。
それが私そのものであり、人格だと思っていた。

自分を変えるというのはほぼ無理なことに思えた。
努力の方法すらわからない。
自分をがんじがらめに縛るしかない。

だから人生はなんだか自分という存在への
罰か呪いのように思えた。

女性には生理がある。
毎月やってきては、感情を乱し、体調を崩し、不安感をあおって
神経質にして去っていく。
毎月、会いたくない自分に会う。
それだけで自分を好きになれなくなる人は多いのではないかと思う。
命を育むための機能なんだとわかっていても
生産性を上げるための社会システムと体のシステムは
すり合っていなかったりする。

あかちゃんを育み産む瞬間は
生命のシステムに感謝するかもしれないが
子育てに入った瞬間から社会のシステムが押し寄せてくるだろう。

自分は周囲に足並みをそろえてついていくだけで精いっぱいで
自分の人生の主人公どころかからだの主人にすらなれない。

私は人生にほとほと疲れ果てていた。
人間であるということに。

人間であるとはなんなのだろう。

その問いは子供のころから自分の中に在った。

人生に疲れ、諦める前に、
その問いの答えをみつけなくてはならない。
私の魂は、そちら側に私を
ぎりぎりのラインで導いてくれたと思う。

人生を悠々と楽しみ成功している間は
楽しいことに夢中で内側に目を向けられないだろうし
疲れ切って心を閉じ切ってしまったら光を取り込めない。

まさに絶妙だった。

私は自分との関係を取り戻し、
やがて内なる真の自己を見つけた、と思う。

そしてそれとともに生きることを
日々実践している。

パートナーとそれを分かち合い、
それを人と分かち合うことを生業としている。
とてもシンプルで気に入っているし
与えられたものすべてに感謝している。

けれど私が見つけたスピリチュアルな生き方は
スピリチュアルの世界でもあまり一般的ではないようだ。

どうしてなんだろうと常々考えている。

ヨガをして、自然が好きで、
エコでナチュラルでオーガニックでヘルシーで環境に優しく
ポジティブで愛にあふれていて笑顔でピースフルで
仲間がいっぱいいて、イベントやお祭りに集まって楽しそう。

私のような仕事をしていると、
当然そういうところに属していると思われることも多い。

私はほとんど家にいて、家族とクライアントさんと
ご近所の犬と飼い主さんくらいしかかかわらない。
社会との接点はインターネットだし、
頭の中は難しいことが大体を占めている。
瞑想こそが癒しだし、仕事が喜びでもある。

瞑想は家のリビングかセッション部屋かベッドでする。
ハタヨガは最小限の自分の好きなアーサナしかしない。
畳1.5畳ほどのスペースで事足りる。

主婦業をまじめにやっていると
あっという間に一日が終わる。
1人出かけるとしたら徒歩圏内の犬の散歩だけ。

おうちの中の日用品は自分なりのこだわりがあるけど
質素なものばかり。

聖地を巡るのは好きだけど
そこになにかをを求めてはいない。

いや求めていないと言ってしまうのはおかしいけど
お墓にその人がいないのと同じで
神もそこにはいない。

いやいなくはないけれど
会いに行くのはそこではない。
祈るのも瞑想するのもそこではない。
挨拶はもちろんするけれど。

スピリチュアルふうのイベントに違和感を感じることが多い。

本当に普段から神と一緒に生きていて
それを分かち合うためにやっている人と
かたちでそれふうのことをやっている人の違いを感じる。

前者は、神はその人全体に溶け込んでいる。
後者は、神を外にいると思っている。
自分には神が降りてくる、神的な何かが見える、
などと言っている人も
神は普段は外にいて、自分のなかにはいない。
人に見せるためか、自分の得になることのために
神を降ろしている。
神だとその人が信じているなにかの想念を、降ろしている。

自然の中に神を見るのはすばらしい。
でも神に会うために自然の中に行く必要はない。

どんなに美しい景色も
あなたの中にある美しい光や
神の愛の現れである人の優しさや正しさや
人を思う心にはかなわない。

言葉の中、思いの中にある神の愛は
自然をもより活かし、輝かせる。

あなたには、すべての人には、私には、
そのちからがある。
命あるものにより真実の命を与えるちからが。

人間が神の似姿に創られたということを
多くの人は認めたくないのだと思う。
面倒だし、現実に直面するから。

自己の中に神をみつけるには
自分の足元をみつめなくてはならないから。
自分が今していることをみつめ
そこから変えていかなくてはならないから。
天を仰いでいるだけではみつからないから。

そういう現実を避けて
気持ちのいいことだけをして
楽なことだけを見て生きることが
あたかもできるかのように
スピリチュアルの一部の思想は誘惑する。

でもそれは、カルマを刈り取らずに
自分の子供たちや来世に丸投げするのと同じだ。
問題をより複雑に混乱させ膨らませて。

私たちは今ここで、今あるものをなるだけまるごと受け入れて
よく見て考えて、きちんと消化しなくてはならない。
物事の良い面とその裏側をまるごと全体として眺めなければならない。
そしてそこから真実を理解する。
それによってしか、愛を学ぶことはできない。
それだけが、分離から統合へと変容する道だから。

あまりに壮大で地道な作業だけど、
内なる真の自己、神とともにその作業をすれば
あなたは楽に平安に、喜びの中でそれに取り組むことができ
そこから生み出される恩恵と学びを最高のかたちで享受できますよ、
それが本当のスピリチュアルだと私は思う。

すべての人が、本当のあなたへと導かれますように。

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