宣言してしまいます。

紋羽の木(もんぱのき) 薬草でもあり、日本で最初の水中眼鏡が作られた木でもある。きれいで大好き。

みなさんおはようございます。
こんなハイペースの更新、未だかつてない、状況です。

まず、一緒に実感のある寄付しよう!プロジェクトは
第一幕を閉じました。
昨日現場を撤収し、今日杉山優さん、無事に帰路についているはずです。

いただいた寄付は現地で今一番必要、と
優さんのハイヤーセルフ
(本人には未承諾ですが多分納得してくれます・笑)の采配によって
物資へと換えられ届けられています。
最後まできっちり仕事をしてくれています。

また、アマゾンから送ってくださった物資に関しても
すでに同じように使われ、メッセージとエネルギーとともに
手渡されている状況です。

この点の詳細が完全につかめていないかもしれませんが
後ほど報告があるかと思います。

私の予感ですが、このプロジェクトは続くというか
拡大するのではないでしょうか。

発信源はまだしばらくここにありますが、
発信源自体が拡大し、そしてそれ同士がつながる
可能性があります。
増殖ですね。

増殖したくてうずうずしているエネルギーを感じます。

さて、私は個人カウンセラー、個人セラピストであって
個の幸せ、と真理を探究しています。
真理はそもそも個の幸せのためにあります。

これまでの世界では
なにかのプロジェクトをするとき

枠組みとシステムを作って
それに個々がはまって、
役割を果たすことで
全体を回す、

という仕組みになっていたかと思います。

それがまあ、今の社会です。すごくおおざっぱですが。

そしてそのシステムは目には見えやすい(思考では解析しやすい)
けれども難点がありました。

全体の調和ために個のエネルギーが非常に制限されるという点です。

社会は、役割からなるべくはみ出さない規格品を望み、
それを育てるべく、教育をしました。

結果、個のエネルギーは損なわれ、病理を産み
個の幸せ、果ては人間の生きる目的意識や
感覚そのものの創造性も奪ってしまうことになりました。

しかし、その芽は滅びたわけではありません。
私たちはそれを、外側の世界に同調しながらも
温存してきたのです。

温存したままそれをなるべく素早く蘇生可能にしておく状態で生き抜くのは
容易なことではなかったはずです。

ほとんどの人は、その芽がなんのために存在しているかにさえ
懐疑的にならざるを得なかったでしょう。

これがいったい自分を幸せにするんだろうか、世の役に立つのだろうか、
いや、まさにトラブルの元凶だったではないか。

私がまさにその一人です。
「なんか、輝かしい才能とか素質みたいなものをもらったようだけど
(これは、子供時代、学生時代には随分輝いていた記憶があったためです。)
生きるために役に立たないものばっかりだ。
というか、邪魔だ。
というか、私には役に立てる能力がない。
つまり、私はダメな人間なんだ。」

そんな気持ちで大人になってからは過ごしました。

私が自分を蘇生させるためには
ものすごく複雑な手続きが必要でした。

それは、周囲にそれをしているお手本がなかったため
自分でみつけ、切り開き、体感し、進んで失敗を冒し、
立ち直ってまた進まなくてはならなかったからです。

でもいつか、自分の人生がそのまま
同じ誰かの役に立つだろう、という希望だけが
私をあきらめなかった支えです。

私を根本から救ったものは
私の内なる神=真の自己です。
私はその神の使者になりました。

私の人生の目的はこれでした。

神の使者にできることは
実際になってみると本当に小さな事ばかりです。

前述しましたように、
社会は枠組みとシステムを作り、人間をそこにあてはめて起動します。

しかし神の使者はそのシステムを覆します。

まず自分の内側に潜り
自分の中の不純物を排斥する、
つまり自己意識のおそうじをこつこつやります。
古い観念、想念の解体ですね。

そして中心とのつながりをなるべく透明に保ち
しかもそのことに固執しない付き合い方をからだで覚えます。

からだで覚える、というところが肝心です。
それには稽古が必要なのです。

そして今生きるステージの中で
その稽古が活かされるよう
小さな実践を重ねるのです。

そのころにはもはや
世界を変えるために大きな仕掛けが必要ないということに気づいています。
小さな実践に対するフィードバックをいやというほど見せつけられ
体験させられるからです。

神の使者は、この創造の源とのつながりを確立し
それを意図的に実践して生きる人のことです。
肉体のある次元でいうのならば。

優しい人(天使的な人)の中には半無意識的に、
自分なんてなんでもないものです、という気持ちで
善い行いをしている人も大勢います。

また一方、使命感というものに固執するあまり
自分を確立したいという欲求のほうに傾いてしまう人もいます。

ですが、両者とも本当の使命を果たすには不充分です。

自分を忘れて奉仕するというのは、自分の価値を見出さないこととは違います。
自分の価値を見出さないということは神の価値、働きを見出さないのと同じです。

また使命感からくる自分を確立したいという欲求は、
自分を完全なものにしたいというありえない目標を掲げるようなものです。
すべては過ぎ去ります。
自分を探して自分にばかり投資して、人生を消費してしまいます。

確立すべきものは関係性です。
神の、愛の、光りの通り道を自己の内に確立し
すぐさまそれを周囲との関係性に反映できるように
準備することです。

先日あるかたがSNSで
「私は架け橋である。
そう思えたら楽になった。
意味や何の為ってことを考えているうちは自分が終着所のようだったが、
流れの一環だとみると、自分がやりたいと思える事をする、そうするだけ。
そこに間違いはないのだからね。」とおっしゃっていた。
(公開モードだったので、そのまま転用させていただきます。
お名前出してもいいかな)

使命、持ち場を満たすというのはこういうことだと私は感じました。
与えられた場のなかで、精いっぱい自分であること。
例えば今回の優さんのように。

そして為したことに執着せず、全体と共有、共存すること。

その関係性のなかで、私たちは体験するものを選びます。
選ぶものが、なんなのか、それが次の場へ、私たちを運びます。

できる限り正しい善きものを探しながらも
私たちは関係するすべてに愛を見つけるという選択ができます。

実は正しい善き行い以上に、関係するすべてに愛を見つける選択のほうが
はるかに良い結果を産むというのがエネルギー的に真実です。

ですから往々にして、神の使者は小さなものに、より狭いところに宿っています。
そのほうがはるかに仕事がやりやすいからなのです。
枠組みに縛られないし摩擦が少なくて済みますからね。

新しい世界の創造はこうして起こると確信しています。
でも、ただ待っていてはだめです。
自分を点検し、蘇生すべき芽を今すぐ見つけてください。
P1000007

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