生きている間に絶対にみつけたいもの

ラマナ・マハルシは「自分を無くすこと」だ、と語る。そしてまた、「世界のことは世界に任せてあなた自身を見なさい」とも言う。

自分を無くすために、多くの人は、他人、周囲を一生懸命見ようとする。自分を忘れて人のために行う、ということをそしようとする。

それが入り口になる人もいる。でもその道を通じて必ず戻ってこなくてはならないところがある。それが真の自己、すなわち内なる神のことだ。

そこに戻ったとき、自分はなく、人もない。また自分は在り、人も在る。その背後にある神だけが実在、となる。

宇宙のすべてを神が創った、と頭で知っていても、この自分をも神が創ったとわからなければ、なにもわかったことにはならない。

この私を神がお創りになった、と日々感じて生きると、私たちはそれをいかに粗末にし、ばかにし、取るに足らないものとし、気に入っていないかがわかる。もっとこうだったら、とか、なんでこうでないのか、と思いながら生きている。

自分の細部にいたるまで、神が創り与えたと理解し、それを知り尽くす努力をすると、他人がわかるようになり、宇宙がわかるようになり、しまいには、その境目にはあまり意味がないとわかる。境目のことを気にするよりも、共有し分かち合うことでしか前進がないということがわかる。

そしてどんな場合でも、自分はその持ち場(自分自身)を通してしか世界に関与できないということもわかる。謙虚になるのだ。

私たちは往々にして、あるがままが気に入らない。自分の、或いは他者の。

どちらにしてもそれは、神の創造物が気に入らないのであり、それは捉え方も付き合い方も扱い方も理解も努力も感じ方も未熟であり不足している。

未熟で不足しているとのは前途洋々であるということだ。伸びしろが大きい。それが多分、今の地球人だと思う。

神を理解する努力をすればいい。神を理解しようとすれば人間も理解できる。

いったいどうやって、というと、神を瞑想することだ。

瞑想というと瞑想のCDを買う人が多いのだけど、そういうのってたいてい、この世しか見ずに作られているからそれなりの波動だ。選ぶなら、本当に瞑想で神に触れた人が作っているものを直覚の導きで選ぶといい。

神を見た人の言葉に触れ、その恩寵にあやかるほうがうんといいのにと私は思う。

CDを使うのはあくまで集中を助けるためであって、もし内なる神を信頼することさえ厭わないなら、いつも神の名を呼び、思い、そこから離れないようにがんばるといいと思う。

時々紹介する話しなんですが、フジ子・ヘミングさんが、演奏中なにを思っているかというと、「かみさま、かみさま、どうかまちがえませんように、たすけてください」とずっと思っているそうなんです。

世界的な才能と腕を持つピアニストが、まちがえませんように、なんてかみさまに祈りながら弾くなんて、誰が想像するでしょう。彼女の著書でそれを読んだとき、うそだ~と思ったのです。

でも今ではそれがわかるようになりました。それが真実だということが。それ以外の努力をし尽して、あとはまちがいさえしなければ、それで演奏は最高なのです。だから、祈るのはそれだけでいい。そしてその祈りを神はちゃんときいてくださる。

それからついでに書きますが、彼女は自分が突然脚光を浴びていい境遇になったのは、昔ネコをたくさん助けたからだと言っています。それも最初、???と感じましたが今ではなるほどと思います。

昔、というのは、貧乏で今日の食べ物に困るような、ジャガイモでおなかを満たすしかない苦しいときに、わずかな糧を自分よりか弱い存在に分けることを厭わなかった、ということなのです。

ですから、物理的には彼女は貧困にあっても、本当は豊かで強く、与える愛に満ちていたということなのです。それが時間を経て、形になって現れたということなのです。

あまりに具現化までの時間が長すぎて「神さま、わたしのことは忘れてしまったのね」と思ったこともありました、ともおっしゃっていました。こちらがそう思っていても「待っておれ、それは必ずあらわれる」というのが神のご意志なのです。


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