今月のおかあさん~本能と愛~

去る9月4日に、我が家のおかあさん(犬です)は避妊手術を受けました。

私も夫も、人生で手術の経験がなく、できればなるだけメスを入れない人生を歩めたらと望んでいました。ですからおかあさんにだって同じ思いです。

うちの子になって一か月を過ぎたあたりからおかあさんに生理がきました。犬の場合は生理が来ると発情前期となります。そして発情期に入ると、オス犬を引き付けるフェロモンを出します。

勉強してみると、オスのわんこには発情期というのはないのだそうです。要はメスの発情に触発されてオスは発情するわけです。

おかあさんが発情期に入ると、驚くべきことにうちの周りにオスのわんこが四六時中徘徊するようになりました。朝おかあさんのところに行くと知らないおっさんやイケメンとばったり顔を合わせるなんてことが頻繁に起こり、夜中におかあさんの声がして窓から外を見ると、おかあさんとそっくりな後ろ姿がひょこひょこ歩いており、最初はおかあさんが脱走したかと思って外に飛び出したりしました。

以前のブログをお読みいただいた方にはお分かりのことですが、わが家の並び3軒はおかあさんとおかあさんの娘が二匹養われていて、それから坂を降りたところのご近所さんのところにもピカピカな血統の匂いがする女のわんちゃんがいます。そしてなんとなく、一斉にみんな発情期みたいなのです。

それでご近所わんちゃん世帯は今、でーじやっさーなのであります。わがおかあさんはすでに出産を経験しており、この子たち含めて具志堅の奇跡の里親連合に引き取られ一安心したと思いきや、翌月からはこの騒ぎです。

我が家では会議に会議を重ねた結果、おかあさんに手術を受けてもらうという苦渋の決断をしました。

前の晩からご飯を抜いて、手術後病院に一泊して帰ってきました。きゃんきゃんするかなとか、暴れたり嫌がったりするかなとか、いろいろとシミレーションしましたが、結果としておかあさんは起こったことは受け入れるタイプの犬でした。おそれをぐっと噛みしめて固まったままじっと耐える子なのです。夫に迎えに行ってもらうと、おかあさんは久方ぶりにしっぽを持ち上げたそうです。大好きなはずのご飯もまったく口にしなかったそうです。麻酔でふらふらになり、車に飛び乗れずにずっこけて、呆然としながら帰ってきました。

帰ってきたおかあさんは、10歳老けた、という感じでした。野犬だったときとも比べ物になりませんでした。私はそのやつれ方が、父が病気の時とダブって見えました。顔の筋力の落ち方や表情、動きなど微細なところが、向精神薬や麻酔によるものというふうに見えました。これはまったくの私の個人的な感触による感想で、おそらくほとんど理解されないのでは、と思うのですが。

翌日から定休日の二日間、私たちはべったりとおかあさんに付き添うことにしました。ガレージの車をどけておかあさんのエリアにしきものを敷いて、おかあさんと添い寝したりごはんやおやつを食べたりヒーリングをしたり、おかあさんが眠ってしまうと瞑想したり読書をしたりして過ごしました。

二日間のうちにおかあさんは精神的ショックからだんだんと目覚めてくるように見えました。

その後おかあさんは少し赤ちゃん返りをしたようにやんちゃになってよく吠えたりしました。それからようやく最近になって落ち着いてきた様子です。

さて、手術前はあれほどモテモテだったおかあさん周辺は静かになり、あれほどお気に入りだったイケメン君と道端で会ってもお互い知らんぷりしています。私と夫はその様子に唖然としました。

おかあさんとイケメンとの恋愛沙汰を見ていていろいろと思うところがありました。一度、夫が往診から戻ると二匹が交尾中ということがありました。するとおかあさんは元気よく夫にしっぽを振って駆け寄ろうとしました。イケメン君はびっくりしておかあさんに引きずられながらおたおたしていたようです。

夫はまずおかあさんのからだを心配して、(変な話なのですが、交尾中びっくりしたりすると大変なことになったりするらしいのです)冷静に二匹を落ち着かせ、いったん家に戻ってきてから、そのあと非常にショックを受けていました。なんだか、本能と愛情が識別できないおかあさんが哀れになってしまって、と言っていました。

夫の言っていることはよくわかりました。おかあさんは私たちにはもちろんですが、野犬時代にごはんをくれた人間さんたちにも非常に心を開いていて、誰のことも忘れないで再会するとしっかり愛情表現します。人間に対しては人間が愛情と感じるような態度で表現するのですが、犬同士のセックスには愛情はないのかもしれません。

私は本能と愛の境界線をはっきりと見た気がしました。人間の中にも同じような領域と境界線があります。人間がもう少しはっきりとこの領域と境界線を認識することができたら、どれだけ人間同士の誤解や憎しみを解くことができるだろうと、改めてつくづく思うのです。

さて、今日の話です。おかあさんにばんごはんをあげてしばし団らんしていると、暗闇から猛然と近づいてくる足音がしました。シロです。シロがまた首輪抜けして脱走してきました。脱走するとうちに飛んできて、それはすごい声であいたかったーあいたかったーを連呼します。かわいいです。首輪がないのでどうやっておうちに送っていこうかなと思いつつ、なんとなくお散歩のふりしておうちに誘導していくと、なんと、かのイケメンがやぶの中から顔を出しました。暗闇でよく見ると、シロのリードが後ろ足にしっかりとからまって動けなくなっています。そうです。イケメンは今ではシロちゃんとクマちゃんともできているのです。そういう節操も犬にはどうやらありません。

娘たちかわいさから、イケメン君をなんとなくいけ好かない野犬扱いしていましたが(おかあさんもシロもクマも野犬だったくせに。)その様子はとても痛々しく、何とか紐をほどいてあげようとしました。けれど紐は何重にも巻き付きねじれたあげく、かた結びになっていてうまくいきません。イケメンが暴れるので思わず「おすわり!」というと、イケメンはとっさに言うことを聞きます。やっぱりイケメンは飼い犬だったようです。

夫の応援を呼びにいったん家に帰るとイケメンは大きな声で助けてと叫んでいます。やぶ蚊とハブを恐れながらも必死にイケメンを救出しました。暴れないようにおすわりさせ、頭を撫でてあげると、甘えてきます。なんと、これがまたかわいいのです。

しかし救出の最中も、もう少しというところでシロがじゃれてくるのでイケメンもついノッて暴れてしまいます。これが本能なわけですね。夫が「このバカ本能」と言いながら必死にイケメンの足の紐をほどいているのです。もうなんだか笑えてきます。まったく人間のてんやわんやをよそにカップルは本能を謳歌していました。

イケメンは外国のおうちでよく飼われているような、ひょろっとして耳が少しだけ折れている、毛が短くて手足の長い、そして目が大きいイケメンです。シロとおんなじような眉毛をしています。野犬とは思えないきれいな毛並みをしています。

ああ、どなたかこのイケメンを保護してくださる方いないかなー。かわいい子が増えると気がかりが増えます。

おかあさんコーヒー


おかあさんです


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私を苦しめた思考

過去に非常に苦しい鬱状態を経験したとき、最も自分を苦しめた要因の一つが
『私はほとんど、この世についてわかっている』
という思考だったと思われます。

鬱であるかどうかにかかわらず、その思考は視野を狭くし、自分と世界を小さな枠にはめ、未来、希望というものを過小評価し、今、あるがままなどを見えなくしてしまいます。

多くを考える人ほど、この思考にはまることが多くなります。
そしてまじめに考えすぎる人はやはり、鬱になりやすいと考えられています。

『私はほどんど、この世についてわかっている』という思考は
『私は生きて行っても、これ以上よくなることはない』という思考と似ています。

私はほとんど、理解していて、その中で精いっぱい努力している。
それでも心の苦しさ、居心地の悪さ、自分への無価値観、世の中の理不尽さ、欺瞞などは解決する兆しもない。
だから・・・

こういった声は心のどこから聞こえてくるのでしょうか。

潜在意識は理論ではなく感覚、感情、本能的な記憶を、感覚的に、無差別に記録しています。
私たちは外界から五感によって刺激を受けるたびに、体内や気分にその感覚を蘇らせ感じています。

そこに不快な感覚、落ち着かない、安心できないなどの感覚があったとき、考える人はそれを感覚によって感じるよりも、頭で整理しようと試みます。
なぜかというと、感覚の世界こそが不確実で不安定な世界だということを体験によって認知しているからです。

子供のころに家族間で感情のぶつかり合いなどによって、恐怖や不快さ不安定さを体験した人などは、なおその傾向にあるでしょう。

そこで、思考によって理由を探しあてがうことで、内面的に安定しようという進歩的な試みをします。

これは最初のうちはとても画期的なやり方だと思われます。
内面的な不快を感じることなく、感覚を処理できるからです。

しかし実際は、思考によって処理できる感覚というのは本当に今目先にある表層の部分だけです。
ですから水面下では、その感覚は処理されることなく、水面の波が静まったあとの大海の海水そのもののように、そこに存在し続けることになります。

『私はほどんどわかっている』という思考は、その水面の波を見て海を知っていると言うのと似ています。
その表層はあまりに平らすぎて退屈だと思ったり、またはその逆に荒波に恐れをなして、またはゴールだけにしか興味が持てずに、その航海に出ることから退いてしまうのです。

つまりこの声は思考の声ですが、その声は潜在意識の中の見えざる不安定さが思考に言わせていている、と言えるかもしれません。

ではどうすればその無間地獄から抜け出せるのか。

大海の水面ではなく、海中へと潜ることです。海中を味わうことを楽しむことです。
意識の世界で言うなら、それが瞑想です。
そして、まずは楽しむための準備をする、それがヒプノセラピーなどの潜在意識下、変性意識下で行うワークであると私は考えます。
楽しむにはまず慣れて馴染むことが大切だからです。

海中に潜ってみると、『私はほどんど、なにもわかっていなかった!』という、最高にハッピーな気づきが訪れます。
それは真実であり、自由であり、解放なのです。

自分はほとんどなにもわかっていなかった、と気づいていかれる多くの方をこれまで拝見してきました。
その時の安堵や、解放感というのは、何度ご一緒に体験しても本当に幸せなものです。
それ以上の感動というものはありません。

その解放こそが、魂とともに生きる、人間の再スタートラインだと私は思います。
多くの方がその人生で体験なさることを願っています。


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号外 

今日は戦争法案のこと。
戦後70年、とうとう日本はここまで来ました。

原発事故の2011年3月11日からこっち、どしろうとなりに情報をあれこれ読み、自分なりに考察を重ねた結果、今日ここまでの流れはおおむね当初から推測したとおりです。

脱原発には、卒戦争が絶対に不可欠であり、脱原発しない、できない理由は、日本はまだ戦争を卒業できていなかったためだと思います。それは、沖縄での生活が私に突き付けてくれた真実でもあります。

ですから、特に今回の決定にがっかりしたりショックだったりと言うことはありませんでした。ああ本当にそう来るんだね、という残念さはありますが。

ですが、私は昨日今日と、新たに意外な発見と希望を感じています。

フェイスブック、ツイッターにはあげておりますが、主に国会中継の動画を見て感じたことです。

私は常々、自分を社会的マイノリティーであると感じてきました。自分の実際の生活上ではそんなことはありませんが、自分の視点、発言が、こんなにも多数派とずれているものかと思い知る機会は多々ありました。また、おおむね方向性が同じ意見の仲間の中でも厳密には食い違うこともたくさんありました。

そもそも私のしている仕事からいって、通常社会に認知されている常識からは逸脱するものです。先日、脳科学者が提唱する、意識の量子論の動画を見て、ああ、科学ってまだそこなんだな、と再認識したところです。私はそういった科学的仮説を飛び越えて、意識と心のセラピーという、脳科学の量子論的臨床をしていますが、それは昨今の科学の歴史があまりに浅いだけこのことであり、人間と宇宙と意識の探求というのは少なくとも数千年の人間の歴史に刻まれているものです。

社会の常識、認知というのは往々にして、こういった、そもそも、という観点が抜け落ちた上に風潮として流布されたものであることが多いと痛感しています。

私が感じた希望というのは、その国会中継の動画のなかで、福山哲郎氏と枝野幸男氏のスピーチを見て、なんだ、自分が疑問に思っていたこと、おかしいと感じていた思いなどがちゃんと語られてるじゃない、というところでした。

本当のことであろうけれど大手マスコミの報道に載らないために、黙殺され、デマ扱いされ、ごく一部のたわごととして扱われているとされているようなマイノリティーの意見を、少なくとも堂々と代弁しているように見えました。

つまり、政治という領域において、自分の頭にあることは自分で思うほどマイノリティーではなかったんだ、それどころか、政治と民衆の声がこんなに直通だったことってあったっけ、これはもしかしたら、ものすごく大きな事件だ、と思えたのです。(私の言うマイノリティーは、政治における野党レベルのものではもちろんありませんでしたので。)

『民主主義というのは多数派によって物事を決めていく制度だが、決してそれが正義ではない。多数の暴力によってこそ、少数派の人権侵害ということが起こるものである。少数派、少数の立場にある人間が、安心して生きていける、少数の権利を守るものが立憲主義であり、民主主義と立憲主義は絶対にセットでなくてはならない。

安倍総理大臣は歴史に残る仕事をした。立憲主義というものがいかに大切なものかということを、私たち日本人が、あまりに当たり前すぎて忘れていたとことを知らしめた。』枝野氏。

私は特に両氏を支持どころか興味すら持ったことがない人間でしたが、彼らのスピーチには胸を打たれました。彼らの態度には、そもそもの自らの使命というものを体現するものの迫力がありました。

約50分と、1時間45分という、とても長い演説です。へたしたら映画や芝居1本分の独演、私は退屈しませんでした。へたな映画よりずっと良かったです。

付録です。
http://saigaijyouhou.com/blog-entry-8066.html