私を目覚めさせた言葉

おはようございます。今日はもう、セミ、セミが朝から鳴いています。沖縄県南城市知念は晴れています。心のセラピストAZUです。

人間というのは本当に不思議な生き物です。よくここまでなんとか、絶えることなくやってきました。でも地球の歴史から見れば人類の歴史なんて豆粒を占めるくらいです。そしてその豆粒のなかのことすら、私たちはほとんどなにも知りません。さらに宇宙から見たらどんなでしょう。

知らなくても生きられるって、なんてありがたいことなのでしょう。だからこそ私たちは生きる目的を探すのではないでしょうか。つまり、ただ生きることが人生の目的ではないわけですね。

このところよく思うのは、探求の民である私たちの仲間は、情報を得ることはたやすくなっているのに、それを生かすことが難しくなっているような気がします。

自分に欠けているものを見つけたとき、多くの人が、何かおかしいとネットや本で調べます。私も調べることが好きなので調べます。そして、これかもしれない、と思い当たるものをみつけたとします。そして理論的に納得すると、多分少しすっきりします。

そうすると今度は、そのやり方をいろいろなことに当てはめてすっきりしたくなります。

いろいろあてはめているうちに、すっきり効果が薄く感じられるようになります。そうすると、別のすっきりツールを探して試す、という風になっていきます。

気がつくと、自己探求は自分の欠点探し、周囲との違い探し、自分の嫌いなところ探しのようになっています。そしていつか、そういうところが全部なくなってすっきりするのがゴールであるかのような設定がつくられていきます。

極端ですが、でもこういう傾向って、誰にでもあると思うのです。

私が長年、自己=スピリチュアルを探求してきて決定的に自分を変えた概念があります。
それは神はこの世を創らなかったです。

私が時々、一元論、と言う言葉を使いますが、一元論をかみ砕くとそういうことになると思います。

神はこの世を創っていない。この世は私たちの想念が投影されている鏡です。想念は神ではないのです。

想念は潜在意識という肉体の体験の記憶の貯蔵領域です。

記憶に神の光が放射されるとその影が周辺に映ります。私たちが世界に見ているのはその影です。私たちは普通それを現実と呼びます。

私たちは幻影を現実と呼び、すべてを映し出す根源を遠いお空にいるかもしれない架空の存在として位置づけています。逆転しているのです。

私たちの苦は、鏡に映った世界に手を伸ばし、鏡をいじくって鏡に映った映像を変えようと努力することから生まれます。それがどれだけ間違ったやり方であるか、こう言われればすぐにお分かりになると思います。そのやり方はほとんど無効です。

私たちが鏡に映った映像に夢中になっている間、神はだまって光を放ち続けます。そもそも大事なのは、その映像すら、神の光がなければ見えない、ということに私たちが気づくことです。映った映像について神に不満を持つ以前に、それを照らしている、つまりすべての背後にある神に私たちが気づくことが大事なのです。

そして、そこに映った映像をより良いと思えるものに変えたいとき、神に照らしてもらって、フィルム自体を点検し、さらにそこに映ったもの自体を変えることができるということです。

それが、内面に取り組むワークです。原因から変える、というのはそういうことです。


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