本当の自分に出会う。


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多くの人が抱えていてそして恐れているものの中に、怒りがあると思います。どうして怒りはこんなにも嫌われているのでしょう。こんなにもポピュラーで日常的で私たち人間の感情の中でも大きなポジションを占めているものだというのに。

しかしながら怒りは抱えている人も、そしてそれを見ている周囲の人も、なかなかいい気分にはさせないことは確かです。見ている周囲の人がいい気分がしないのは、自分の中にもあるそれを感じてしまうから、と言えるでしょう。つまりは誰もの中に在ってしかるべきものです。

この怒りの使い道は本当はたくさんあります。ついさっき『盲腸は実は重要な役目を持つ臓器だった!人間のからだに無駄なものはやはり一つもなかった!』という記事を読んだところですが、怒りという感情エネルギーだってそうに違いありません。

では私たちが不愉快でいい気がしない怒りの正体はいったいなんでしょう。怒りのエネルギーは中医学では「肝」に関わると言われています。肝臓が悪い人は怒りに偏る傾向がある、というのは確かに観察していると合点がいくことです。また、冷え取りの進藤先生は、心における肝臓の毒は「傲慢」として現れるとおっしゃっています。

傲慢という言葉、これがまた、嫌われそうな言葉です。多くの人は自分は傲慢ではない、と思っているかもしれません。つい最近読んだ、小説家の村上春樹さんの『アンダーグラウンド』という地下鉄サリン事件の被害者へのインタービューで綴られた本のあとがきで印象的な言葉がありました。「自分は生意気で身勝手なところはあるにせよ、決して傲慢な人間ではないと考えてきた。」という一節です。もちろんこの後に逆説が続きます。「しかし自分の置かれている立場は、好むと好まざるとにかかわらず、発生的にある種の傲慢さを含んでいるものなのだ。」

これは村上春樹さんがサリンの被害者にインタビューする行為について書かれていることですが、私はこの部分は人間についての真実を表していると感じました。

私は自分の中に無数に存在する怒りをなるだけつぶさに見つめてきました。その裏にはいちいち傲慢さという存在悪のような観念が貼り付いていました。

自分に自信がない、という言葉をクライアントさんから伺うことは多いです。では自分に自信がある、というのはどんな状態でしょうか。あるがままの自分をすべて受け入れすみずみまで愛している状態でしょうか。おそらくそうイメージしたなら、それを自分に自信がある、とは表現しないのではないでしょうか。自分に自信がある、というのはもう少し表層的なイメージを指しているように思えます。例えば、自分は正しいことをしているという確信がある、というような。

私は、自分に自信なんてなくて当然、だって人間って全然あてにならない生き物だもの、と思っています。肉体としての人間は信頼に値しない存在です。誤解や勘違いばかりし、昨日できたことは今日できなくなっており、真実とは違うことばかりに気を取られ反応し追いかけています。そんな自分と付き合っていれば、どうも自分を信頼できないと感じるのは当然のことです。そしてそうでない自分になりたい、自分に自信を持ちたいと願うのかもしれません。

しかし人間という肉体の特性を備えた時点で、私たちは確実で無限で不変たる存在ではなく、波立ち流れ現れては消えていく存在です。それに信頼を求める事自体が勘違いなのです。しかし同時に私たちは、確実で無限で不変たるものを追求することの可能な存在でもあります。スピリチュアルというのはその追求なのだと思います。

さて、正しいことをしている確信というのは人間にとって魅力的です。自信に溢れ、輝き、エネルギッシュな感じの人の多くはこういった状態にあるのかもしれません。しかし私はそもそもその土台というというものが気になります。私たちの肉体の目は最初から偏見というフィルターに覆われまくっています。その偏見に満ちた目と尺度と価値観によって正しいと信じられた状態にあること、それは「発生的にある種の傲慢さを含んでいる」と言えるとも思います。同時に自信がないという気持ちの裏にもそれは等価に存在します。私たちの土台そのものが「発生的にある種の傲慢さを含んでいる」ということに気づかないと、私たちはそこから自由になれません。傲慢という船に乗りながら自由にたどり着くことはありません。傲慢という船に乗って、怒りの不愉快さと罪悪感から逃れることはできません。

私たちは発生的に含まれている傲慢さに気づいていく必要があります。そうしないと、愛という真実を感じることが難しいからです。そして愛の発信源になることももちろん困難です。そもそもの土台が非常に不安定で曖昧で気まぐれなものだということに気づけば、私たちはいちいち誰の土台が悪いとか、誰のが誰のに劣っているとか優れているということにとらわれる必要もなくなります。

私たちの価値基準はこの真実に気づかない限り、いつまでたっても周りの誰かとの比較でしかありません。それをしている限り、私たちは、さして価値のないものと自分を比べて自信満々になるか自信喪失するかを繰り返すことになります。自分を受け入れる、自分を愛する、また他者を無条件に愛するなどということは夢のまた夢のようなことになってしまいます。

「私は私の中へ潜り込み、本当の私と出会います」ということの本当の意味は、自分は他人と比べてこんな長所や才能を持っていると発見することではありません。「私は誰もが持ってる不完全を持っていて、同時に確実で無限で不変の真実をみつけることができる霊です。そしてすべての人がそうです。」ということこそが、本当の自分と出会うということの意味です。

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