私がセラピーを通して知った真実。


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人間の思考は認識のために常に比較をします。感じることをやめて思考に自分を任せることは一見合理的で知的見にえますが、思考は潜在意識の反応に従って価値判断をくだし、身近に感じられる手っ取り早いものを基準に設けてそれと何かを比較対照しものごとを認識していきます。

「潜在意識って、いいものだと思っていました」と先日おっしゃった方がいらっしゃいました。そうですよね。潜在意識を活性化して成功哲学に利用するなどのやり方はビジネス書などでも知られていて、あたかも人間の能力、超能力ばかりが眠っているところみたいにイメージされがちです。

潜在意識は、五感を通して認識された記憶全体です。体験から得た肉体的感覚の記憶の貯蔵庫みたいなものです。思考(顕在意識)に比べて100倍とも10000倍とも言われる意識の領域です。もちろん役に立つ面も多々あります。才能は過去世の人生での訓練の賜物で、これらも潜在意識の中にありますから、それはきっかけによって引き出され生かすことのできる記憶です。

ここにはそれ以外にも混沌とした不条理な命題がいっぱい詰まっています。幼少期に体験から刻まれた信念などが無秩序に入っていて、真実ではないことだらけです。セッションではよくこんなふうにお話します。

お母さんの声が優しくて(聴覚)抱っこされたらあったかくてやわらかくて(触覚)いい匂いがして(嗅覚)辺りは明るく光が差し込んでいて(視覚)おっぱい飲んておいしかった(味覚)。それでとっても安心していい気持ちだった(価値)。

潜在意識の記憶はこんな感じで赤ちゃんである私たちに刷り込まれます。そしてこんなふうに受け取った感触と価値を『愛情』として記憶したりします。

反対に、お母さんの声がピリピリして、お顔も恐くて、お腹がすいて元気がなくなったからおっぱいちょうだいって泣いたけど、お母さんはどこかに行っちゃって、その間とても寂しくて不安で、辺りは薄暗くなってきて、寒くて、でも自分ではなにもできないし、とっても辛かった、などという記憶は、日常にありがちな些細な一瞬の出来事のようですが、赤ちゃんにとっては永遠の不吉な無力な時間であり、これを『愛情不足』として記憶したりします。トラウマ的な記憶とも呼びます。

トラウマって、もっとドラマティックだったりエゴイスティックなイメージがあるかもしれませんが、年齢退行療法を長いことやっていると、こういったことがあとあと、影響を残すことが多いことがわかります。不可抗力で誰も悪くないのに、傷あとは残り、こういう記憶を核にして、寂しさ、不安感、愛情への飢え、無力感、自分への無価値観のような観念が意識の中に巣食うように根付いています。

この愛情と愛情不足の記憶のどちらも絶対的な真実ではありません。たまたまそういう体験をしたというところから、その人がそのように受け取り、そこに価値基準がセットになってしまっているだけです。

もちろんたったひとつの記憶だけでそれがトラウマになって強力に影響を残すとは言えません。もっと言えば私たち人間は集合的意識のレベルとして、これらのマイナスと言える感覚を共有しています。サバイバルの長い動物としての歴史から、これらの感覚は私たちの本能的とも言える自己保存の意識にも根深く結びついていると考えられます。

心のセラピー、ワークはこういった体験から作られた思い込みを解くことに始まります。

あったかい=良い。
冷たい=悪い。
明るい=いい。
暗い=悪い。
こういうレッテルを剥がしていきます。
人によっては、鉛筆=良いとか、洗濯=悪いとか、金=良いとか青=悪いとか、そういう意味付けや価値基準があるかもしれません。
地域や文化によって昔からそうなっている基準もありますし、好き嫌い、というのも多分にこの思い込みに左右されます。

こんな価値基準のもっとも重大な罠は、自分の価値、人間の価値についてもこれらの付随的な条件付けによって測ってしまう点です。

『自分を愛する』という取り組みを難しいと感じる人の内面を観察していると、その理由がわかります。それは、自分を耐えず周囲の他者と比較して、その比較の結果を好きになろうとしているのです。

「この点で私はあの人に劣っている。だけど私は私を好きでいなくてはならない。」
「この点で私はあの人に優っている。だから受け入れられる。」
「本当に優っているかどうかはわからないけど、これは好きだ。(或いは正しい。)だから愛せる。」

こんなことをしています。それで、愛せる項目を増やすために、或いは減点を減らすために努力しています。その努力は、ある程度役に立つこともあるでしょうが、しかし愛するというもっとも大事な点においては機能しないでしょう。だから多くの人が苦労しています。

まず、愛というのは好き嫌いとは関係がありません。好き嫌いというのは先ほど書きましたように、何かしらの体験から来る価値基準に無意識的に照らされています。または思考によって合理的と判断されたことで受け入れやすく安全な感じがするという心理から来ることもあります。これを好きでいることは、社会通念からいっても通りがいい、だから好き、みたいなものです。人を好きになる時に、こんな仕事をしているし、こんな学校出ていて、国籍はこれで、家族構成はこんなで、財産はこれくらい、だからとっても好きになりやすい、みたいな感じです。財産は、というところで多くの人はそれは違う、関係ないと思うかもしれませんが、仕事とか趣味とかその人の好き嫌いなどについてだとその人を判断する材料として誰もが考慮するのではないでしょうか。プロフィールにも好き嫌いなどの項目はよく載っていますよね。もちろんその人がなにに心を惹かれるか、というのはその人の意識の波長や霊性とも関わっているので、その人を知る上で重要だとは思います。

しかしそれとは別に、人間は嫌いでも愛することはできます。愛という次元は好き嫌いの次元を超えています。キリストは「汝の敵を愛せ」と言いましたがまさにこのことでしょう。これを理性の愛、アガペの愛というのですが、人間は思考によって好き嫌いを決めつけることもできますが、理性によって高次元の愛に自己を近づけていくことも可能です。

そのために、思い込みを外していくのです。それをするかどうか選ぶのは自分の意志です。しかし意志や思考や理性だけで愛することはできません。愛は感じるものであり、実感するものです。ですから私たちは感情、感覚の領域である潜在意識を再教化していく必要があります。思い込みによってただ反射している意識の習慣を取り除いて、もっと深く広い、高次元の領域であるハートで直に感じるようになっていくのです。これが自己意識の浄化であり、癒しです。

愛するというのは、あるがままにそれを観るというのと似ています。自分なりの価値基準のフィルターを外し、そのものを観ます。当然、比較してそれを知る、というふうにはしません。比較してその価値を知ろうとしているのは思考ですが、思考自体はそれを知っても愛することはできません。あるがままを観ることができるのは愛という視線です。それができている時、ハートが開いている、と言うことができます。

開いても大丈夫、開いたほうが楽、というふうになるには、心(自己意識)のお掃除が必要です。人間は恐れがあると心に鎧を付け、扉を細く閉じて、自分を守ろうとします。その結果、自分に差し込むおひさま、流れ込む愛もちょろちょろとか細いものにしてしまいます。あるがままで幸せであるにはこの恐れている状態を手放す必要があります。

恐れは思い込みによって増幅します。増幅した恐れは実際にある脅威から身を守る以上に強固な守りを固めようとします。それを等身大に戻してあげるには、過去に身につけてつけっぱなしになっている、実際は役目を終えた鎧を外して、手放してあげる必要があります。そして、鎧の中に隠れている気づいていない思いに気づき、思い込みの誤りを修正しておげます。さらに、新たに真実に自己を守ってくれる真実の守護神を見つけ、親しむ必要があります。その真実の守護神が、誰もの内にある神と、その愛です。

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