恩寵とともに生きる

この世は二元性の世界ですから、善玉菌と悪玉菌のダンスのようなものです。それでも人間は、なんとかもっとよくなろうという努力をし、未踏の地に足を踏み入れ前進していきます。その歩みをやめると私たちは機械かもう少し単純な動物のように、食べて寝て欲を満たすというところで生きることを繰り返します。確かにそうやって生きるだけでも人生には結構努力が必要です。その努力というのはサバイバルで、地上に生きる生物は望むと望まざるとにかかわらずその努力に巻き込まれています。

人間が、より人間らしく(心ある人間という生き物らしく)生きたいという選択をするとき私たちには葛藤が生まれます。優しくありたい、とか、自分をもっと善きものだと感じたい、という願いがあると、私たちはその反対の自分、意地悪だったりずうずうしかったりずるかったりする自分が目に付きます。これらはサバイバル上、自分に都合のいい側面として自分に付随しています。他人より要領よくメシにありつく知恵でもあります。善くありたい人はそういう自分を見るとショックです。でも、そういう面を消すことはできません。サバイバルという次元を卒業することなしには。

ただ善くなろうとするだけではそれは無理なのです。つまり自分に生きる糧を与えるのが自分の肉体と肉体に付随する意識、頭脳と知恵だという次元にいる間は。

昔、神の子や化身は、人がそういう次元にいても、そうでないことを身をもって知るきっかけとなるように、たとえばお布施や献金という行いをして、物を手放すことで心が満たされる体験をするように示唆しました。私たちはパンのみにて生きるにあらず、とイエスは言ったと言われています。

しかしそれだけで私たち人間の心は平安を得ることはできません。サバイバルの次元を卒業するには、個々が内なる神に気づき、あるいは魂の存在に気づき、私たちの本質はそれであり、それが源であり、私たちに糧を与える源泉だということに気づかなくてはなりません。それ以外にサバイバルを卒業する方法がありません。このことは私が長年のスピリチュアルの探求で行き着いた当たり前の真実です。イエスが、人間は二つの神に同時に仕えることはできないと言ったのは、キリスト教とイスラム教は両立しないと言ったのではなく、自己を肉体意識だと認識しそれを生きることを選ぶか、内なる神、霊、魂だと認識しそれを生きることを選ぶかどちらかしかできない、と言ったのです。前者はサバイバル、後者は卒業です。

サバイバルを卒業すると、サバイバルにとって重要だった資質はだんだんと不要になっていきます。早い者勝ち、とか、取り損ねる、とか、そういう本能もあまり必要ではなくなります。あれをしないと、これを得ないと、取り残される、というような意識も。あいつに勝ちたいとかこいつに嫌われたくないとか、評価されたいとか。しまいにはもっとよくなりたい、もっと、もっと、という意識も。それらは、自分の飼い主を自分の肉体や社会や会社や家族や、誰かだという前提に働いているのであって、その主が自己のうちにある神、とだと信頼することができるにしたがって弱まっていくものです。自分の中のそれらの感覚に気づくとか違和感を感じるということは、これらを手放す時に来ている証拠でもあります。

これは宗教を信じることとは違います。宗教を信じることは人の教えや教義を守ることが重要だと教えられますが、内なる神を感じ、体験し、信頼する生き方を選ぶのは教義とは無関係です。これは自分と内なる自己との関係のことですから。

私は10代のころから心底信頼できるなにかを探していましたが、教義の中にそれを見つけることはできませんでした。でも今は内なる神とともにすべての瞬間を生きる生き方を望み、それを選んでます。神とは無限の愛です。無限とはすべてを超えるということです。すべてを超えているので特定したり規定することができません。愛にも人間の愛とか愛情が含まれますが、無限の愛はそれらを超えます。無限に受容し無限に赦し無限に導き無限に守り無限に教えます。原因と結果の法則すら私たちにその本質を捉えることは簡単ではないのに、それらの法則をも超えます。そしてそれを探求できるのが人間という生き物です。

つまり私たちは無限に与えられているのです。それに気づいているかどうか、それに対して開き、その恩寵とともに生きることを選ぶかどうかだけが重要なのです。

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