わたしはだあれ

先日お誕生日を迎え、おかげさまでぴかぴかの46歳になることができました。祝福くださったみなさん、本当にありがとうございました。最高のお誕生日がまた更新されました。

スピリチュアルに生きるというのはたとえるなら、魂をエンジンにして愛という燃料で動く、みたいな感じです。ではそうでない生き方はどうなるのかというと、肉体の機能がエンジンで燃料は食べ物ということになるのでしょうか。

私が肉体主導で生きていた頃は、とにかく不調不具合が気になって仕方ありませんでした。一言で言うと、生きているのがしんどく感じるのです。気分に左右されるし感情をコントロールできないし、複雑な割には効率の良くない、取り扱いに困る、あまり価値あるとは言えない存在だと感じていました。

つまりその頃は、自分という存在を「この肉体」だと認識していました。

今はもちろんそうは認識していません。

言葉で言うのは誤解を生じるでしょうが、私は自分のことをとても広がっている意識だという風に捉えています。それが私の中心であり、そして同時に宇宙の中心でもあるという風に感じます。本当は私は誰の中心でもいいのですが、この肉体を通して体験することを選んでいます。今のところ。

この体は以前は私の無理な要求やしごきにも随分応えてくれた優れものですが、当時はそのすばらしさには気づかずにモンクと注文ばかりのメッセージを送り続けていました。そして、挙句の果てに「出来が良くない」と批判したりしていました。出来が良くないばかりに自分の人生が開けない、という風に。

その頃の私の意識は、体にまつわる記憶でびっしりと詰まり、頭の中はその感覚の記憶から来る思考で四六時中動き回っていました。その上まだ知識を欲しがり、自分がもっと上等になることばかりを求めていました。そうすればきっと、未だ知らない「幸せ」というものを「手に入れられるはず」と無意識に信じていたのだと思います。

こうして書いているだけでも本当に忙しそうだし、力んでいたのがわかります。そして、心の中は詰まっていて重たく、キャパシティが狭いため何かあるといっぱいいっぱいになります。それを「がまん」して、もっとがんばろうとするので何をするにも苦労が多く、人生は重労働という感じがして、こんなにがんばっているのに事態が好転しないことに腹を立て、最後にはまた自分を責める、というような循環が起こっていました。

この状態というのは、私がよく言う「外に向かってがんばっている」状態です。つまり、内面にある映写機で外側のスクリーンに映っている映像を動かそうと必死にスクリーンの上をかき回しているようなことです。

私がしなくてはならなかったのは、内側に戻り、上映されているフィルムを点検することでした。

フィルムに映っているのは実はどうということはない風景や情景なのです。けれどそこには私の感覚の世界から受け取った印象という色が塗ってあって画面を染めたり、タグがいっぱいついていて、いちいち、これは許せる、これは嫌い、これはだめなやつ、絶対許せないやつ、と書いてありました。

そのために私はその映像をあるがままに観ることがなかなかできなかったのです。

フィルムのお掃除は、自分の体験から来る印象で勝手に塗ってしまった色を抜いていくこと、本来生理整頓のためについているはずのタグが、批判や価値基準に摩り替わりなおかつ、気分が悪くなるから見ちゃだめ、となっているようなものも開いてみて、いらないタグを捨てて、本来の役割に戻していきました。

すると、映像は本来の自然な景色に戻っただけではなく、映し出す光そのものが美しくまばゆく、どの景色の背後もその光によって映し出されていたのだということに気づきました。

この映写機は魂に備わりフィルムは意識であり映像を映し出す光は愛です。

フィルムの管理を任されていますが、それは何を撮るかということではなく、映っているものがあるがままに美しく放射されるよう、お掃除を怠らないことのように思われます。

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