潜在意識の対話

私のスピリチュアルカウンセリングは
いわゆる霊視したり鑑定したり判断するのとは違い
また心理カウンセリングとももちろん違っている。
心理カウンセリングの技法はとても重要で
勉強して本当に良かったと思っている。
その基盤は心理セラピストとして人と向き合うには必須だと思う。
けれど心理カウンセリングの技法によって
深いレベルでしかも特定の時間内に潜在意識の変容をもたらすことは
とても難しいことではないかと感じている。
心理カウンセリングでは
カウンセラーが超越的な受容というレベルに達することで癒しが実現する。
自己受容の方法として言葉や問いかけはもちろん重要だが
超越的な受容には瞑想がどうしても必要になる。
チャクラを開き、意識を高い波動領域に、というような事が本当は必要だ。
自己の細部に取り組みエゴを解体しなおかつ
高次元の意識レベルで相手に向き合わなければ超越的な受容は難しいだろう。
テクニックや心情、情感だけで共感することは本当はできないし
浅い部分の共感で人はそう変わるものではない。
言葉というのは思考の産物であり
悟りや真理を言葉にすることは不可能だ。
けれど真理が完全であり実在が至福であるとことがわかれば
人には絶対に幸せになる道があることがわかる。
私がすることは一つで
その人がその道を気づきと共に見つけられるように
その道を見ることを閉ざしているものは何かが見つかるように
問いかけることだ。
心を開き、チャクラを開き、高い波動レベルでそれに気づくと
それは意識の深いレベルで創造される。
潜在意識での対話と言ってもいいと思う。

想念のエネルギー

レイキというものがとても具体的なエネルギーであり
そのバイブレーションが及ぼす結果というものが
本当に明確なものだということを
日々のセッションを通して実感させられます。
させられ続けています。
いわゆる霊感体質のクライアントさんが見えたりすると
私には見えないものを見て教えていただけることも多いのですが
レイキを始めたとたんに
「あれ、男の子がこんなところに」とか
「あ、出て行きました」
なんてことが起こることもあります。
どうしてなんでしょうと聞かれるけれど
レイキを受け取ると恐らく自身の波動が高くなり
それまで同じ波長で引き合っていた想念エネルギーから波長に異差が出て
はっきりわかるとか離れていくとかいうことが起こるようです。
明らかに別の人格の人がしゃべりだして
光を流すのやめて!苦しい!と言われたり
祈るのやめて!私はもう救われないんだから!と言われることもあります。
人にくっついている想念というのは
荒いバイブレーションの波動(執着)なので
そのほうが良いとわかっていても
いいほう(光のほう、手放すほう、ゆるすほう)へなかなか行けません。
これは肉体を持っている人でもいない人でも同じだと思います。
肉体を持たなくなっても、肉体にいたときの傷のショックが癒えないと
ゆるせない思いで人や場所にくっついてしまうようです。
くっつかれている人にも似たエネルギーがあると
引き寄せの法則で引き合ってしまいます。
何も言わずに心で神の名を呼んだり祈ったり
レイキのシンボルやマントラを言うと
その、想念の人は「やめて!」と言って苦しがります。
それを見ていると、光というものがどういうものなのか
エネルギーがどのように作用し合っているのかが
とてもよくわかります。
かなり恐ろしい怨みのセリフが飛び出したりするので
おそろしくないこともないですが
私はそれが人間なのだと思います。
誰だって、あまりにひどい目にあったらそうなります。
虐げられ、理解や敬いを受けず、愛のない扱いを受けたら
或いは大切な人をそんな目に遭わされたら。
だからこそ、光に向かって前進することが
本当に尊いのだし
それは人間という生き物にとっては
それ以上ない大きなテーマなのだと思います。
右の頬を打たれたら左の頬を差し出すという行為が
どれほどの愛に満ちたことなのか
神へと近づく行為なのか。
自分だけの力でできることなんて
この世にはほとんどないけれど
神の名を呼び、赦されることを祈るのは
地上に光を招き
光につながる行為なのだと思います。
レイキを実践するにつれ
これはレイキなのか、神なのか、と思うことがあります。
世間で言われているような手当て療法、健康法とは
はるかに遠いところまで連れて行かれるのを感じます。
神を知るための実践法のひとつと言っていいのではないかと思います。
きっと臼井さんも、そう思っていらっしゃることと思います。

重荷を降ろす

セラピーやヒーリングはエネルギーの掃除みたいなものだ。
エネルギーに重たい波動の想念などがくっつくと
人は重荷を背負う。
本人が優しく繊細で清らかな人だとしても
重たいバイブレーションを放っていると
重たい想念はくっついてしまう。
重荷にあえいで苦しんでいると
3次元の幻想世界を凝視してしまい
その世界にどっぷりとはまってしまう。
霊的な目が閉じられ
霊的なつながりを感じられず
孤独な恐れに襲われてしまう。
人が目覚めるには
その人に与えられた道があり
その人の選ぶ道がある。
けれど前進が妨げられているとき
重たい波動が掃われると
人はひかりを思い出せる。
雲が晴れれば太陽はいつもそこにあったのだ、というふうに。

わがや

今日はだんなさんの34歳の誕生日です。
月日の過ぎ去ることの早いこと、と思うにつけ
今という時の大切さを痛感します。
本当に、この世にいてくれて
一緒にいてくれてありがとうという気持ちでいっぱいです。
当時から思っていたけれど
その頃よりも今はもっとふかーい次元でそう感じます。
だんなさんは私にも普段からよくそういうことを言ってくれます。
「いてくれるだけでありがたいさ」とか。…
時間との戦いに唯一勝てるのは愛だと思います。
長さとか量でなく
瞬時に満ちるもの。
男女の愛だけでなく
心底満たされる愛が
地上とすべての人にもたらされますように。

さがしものはなんですか

先日だんなさんが
CDが一枚みつからないんだと言って困っていた。
あちこち探したけれどみつからない。
CDをなくしたことなんて
ここ数年で1枚しかない
これが2枚目になってしまうかも・・・と言う。
だんなさんはDJを趣味でやっているので
かなりの枚数を持っている。
うちのクロゼットの一つは
だんなさんのDJブースになっている。
びっしり詰め込まれたCDやレコードの棚を
全部引っ張り出して探したけれど
やっぱりみつからないらしい。
あきらめかけたところで私が
「レイキしてごらんよ。
なくし物を探すっていうのあったでしょ。」とひとこと。
だんなさんは、レイキでどうしてみつかるのさ、という
納得しない感じを醸し出している。
私も、絶対とは思っていない。
あまり物理的なことのためにレイキを使うことがないので
実績も少ない。
でも、その物体にレイキをして
波長を合わせて引き寄せるというのは
理にかなっていると思うので
そのように説明すると
だんなさんはなるほど、じゃあ、という感じでレイキを送ったようだ。
私はすぐに家事に戻った。
ものの1分としないうちにだんなさんが
「あった。」と言う。
驚いたのは私のほうだ。
あれだけ探してたのに。
PCのドライブから出てきたそう。
「なんでここに入ってるかな~。」とだんなさん。
探していなかったところから出てきたわけだから
魔法ではないし
偶然、と見えなくない。
私だってそう思いそうになる。うっかりすると。
だけど、波長の法則ってそういう風に働くものだ。
人は願いがかなったとたん
それは関係ないところから突然やってきたように思いがちだ。
でも、それは化学反応のように正確に起こるべくして起こる。
水素も酸素も目に見えないけれど
反応するとちゃんと水が生まれる。
地上の出来事って本当に法則にのっとっているのだ。

やっぱりシンプルが好き

人によって様々な幸せの形があることは
まったくその通りだと思うし否定を感じない。
けれども、肉体の欲求に対しての達成や
獲得による喜びはひと時のものであり
足るを知ることへは繋がらずに
さらに、もっと、まだまだという風に飢えを増長させていくのが普通だ。
例えるならその人のお部屋はいろいろなときに手に入れた戦利品でいっぱいだ。
その中には既にブームの去った思い出だけのものや
今の趣味には全然合わないもの
また最近手に入れてとても満足を与えてくれた新顔もある。
そして同じくらいたくさんの
古いガラクタや
もはやいつ、何のためにやってきて
何に使うのかさえわからないものもあふれているだろう。
これはいいもの、これはよからぬもの、みたいなレッテルを貼って
整頓してみたりもするのだが
なんだか気分はスッキリしないし
いいものが増えていっても
時々眺めて満足する以外の時は
喜びを感じるのさえ忘れがちだ。
忘れていてまた同じ様なものを買ってきてしまったりさえもする。
ある時もうこれ以上お部屋に物が入らないことに気づく。
欲しい物も思い当たらないし
得たところで3日も経てば当たり前になってしまって
また新たな獲得のためにあくせくしていた自分に気づく。
ブームが去ったあとのかつての宝物は
郷愁以外には特に魅力が感じられないのだが
これを失ってしまったら
自分のこれまでの人生が無意味になるようで手放せない。
・・・なんだかひどい例えだ。
誰もが幸せである方法とは
このお部屋を掃除する、というやり方だ。
なんだかんだとレッテルの貼られたかつての宝やガラクタの
そのどちらにも執着せず
どちらも手放す。
片付けると決めて動き出すと
お部屋にお日さまが差し込み始め
風通しが良くなってくる。
居心地がいいことに気づく。
お部屋は見通しが良くなり
何が機能していて何が不要なのか
風通しや日当たりを遮るものがどれなのかもよくわかる。
ただそこに最初からあったものだけで
快適で幸せで平安になっていることに気づく。
このお部屋というのが、例えばわたしだ。

光と意識と存在と

スピリチュアルであるということは
自分は肉体ではない、無限の存在であると知っているということだ。
でも実際にそれを本当に知っている人は少ないだろう。
或いは信じたいけれど、確信がない。
それで人生をコントロールするために苦闘する。
自分はスピリチュアルかどうか、という問いは
愛を信じるかどうか、という問いと同じ意味だと私は思う。
愛がどれとははっきりと言えなくても
人は心で愛というものが存在していることを
多かれ少なかれ感じていて
その存在を完全否定することは難しいことだと思う。
高校生の頃読んだ曽野綾子さんのエッセイで
彼女は無神論者だという人に問いかける。
「では、あなたの子供が山で遭難して消息不明の時
あなたは神に祈らないんですね」という風に。
「無神論者だというなら神に祈らないはずです」と。
彼女はそんな感じの極論を用いて人の意識の思い込みをひっくり返すことをよくなさる。
そういうのがとてもおもしろかった。
人は心の底で信じていることを「信じていない」と言ってみたり
恐れていることを恐れていない、
感じていることを感じないとよく口にする。
実際に人は自分の力でどれほどのことができるのだろうと思う。
その結果何をもたらすことができるのだろう。
我(が)の力は一見パワフルではある。
我のパワーというのは我(われ)の意思をもって周囲をコントロールしようと奮闘する。
我にとっては周囲の環境、つまり現象がすべてだからだ。
でも自分という肉体や周囲を意のままに変えようとするのは本当に生命を消耗させるものだ。
自分がスピリットであり愛であると知ると
外側の世界は完全に内なるエネルギーの投影だとわかる。
外側に愛の欠如を感じるとき
内側に愛を妨げる思考がある。
その思考は、防衛や攻撃から生まれている。
防衛と攻撃は恐れによって発動される。
人は恐れから自由にならない限り
愛の欠如した状況を作り出し続ける。
負のカルマというのはそういうことだ。
内なる進化と呼ばれているのは
恐れを信頼に変えていくことであり
目覚めとは、恐れを幻想と知り
真実に還ることだと思う。