ゴールデンウィークは

Ruashは平常通りの営業となります。
ゴールデンウィーク、去年より随分涼しいこの時期。
沖縄の夏は長いので
このくらいだと本当に過ごしやすくて、優しい気候です。
一昨日から、黄砂がまたやってきました。
普段はどこまでも澄み切って
遠くがすぐ近くに見える景色が
黄砂が来ると霞んでしまいます。
慣れ親しんだ東京の空みたいです。
去年はことごとく
「いつもはこんなじゃないけどねぇ」と地元の方のおっしゃる天候だったのですが
今年もおかしい、みたいです。
いつもどおりがなくなってきています。
変化、というものに慣れるよう
地球にレッスンを受けてるみたいなものかもしれませんね。
どんなお天気でも
どんな状況でも
心にらぶとぴーす、です。
みんな、大丈夫です!

教科書と処方箋

スピリチュアルの教えの中には
教科書と処方箋の両方がある。
言葉を受け取るとき
教科書(方程式が書いてある)と処方箋(ケースバイケース)を
一緒にしてしまうと
間違いが起こってしまう。
処方箋はその時その人にとって必要だから効くのであって
それをいつでも誰にでも万能だと思って当てはめてしまうと
時には毒になることもある。
特によく効く薬はそうでしょう?
真理の言葉というのは
普遍的でいかなるときにも矛盾しない万能薬なのですが
だからと言っていつでも誰にでもその場で効くとは限らない。
万能薬が功を奏するのは
処方箋によって整えられた土壌が必要なこともある。

living in the light

スピリチュアルの標語(?)に
愛の反対語は憎しみではなく、恐れだ、というのがあります。
その言葉はとても的を得ていると思う。
反対語かどうかは正確には違うかもしれませんが
愛から隔ててしまうものは恐れだと思う。
もうちょっと人間的(心情的)なレベルでは
無関心だ、というのもあるけど
無関心を無意識、と置き換えると
これも当てはまると思う。
というか、私たちを光と愛から隔てるのは主に
無意識の恐れ、なのだ。
そして恐れから自由になろうとして向き合おうとしても
それが無意識の闇に隠れているから
なかなか私たちはそこから目覚めることができない。
そこで必要なのは瞑想、と変性意識下で行われるワークだと思う。
そのワークのひとつが催眠=ヒプノセラピーでありレイキヒーリングである。
恐れを探求していて
エゴをどんどん解体していくと
やっぱり究極「死」という肉体から離れる行事は一大イベントだ。
いくら美しくて安らかで痛みが少ない死にたまたま出会っても
死に対してポジティブであることはなかなか難しいと思う。
人生の大きな課題であることは確かだ。
あるヨギの自叙伝を読んで目からウロコが落ちまくっている。
聖者は肉体を離れるとき
マハ・サマディという技法で肉体を離れる=現世でいう死を行う。
それがその人生での最後の行になるのだけれど
自叙伝を書くような身近(と言うのも変ですが、イエスのようにお弟子が書いた書でなく)な
肉体を持つ存在がそうやって続々と(師匠たちが)この世を離れる様はとても衝撃だった。
それで、イエス・キリストは
どうしてあんなに人々に恐怖や絶望という印象を与えるような亡くなり方をしたんだろうかと
とても不思議に思った。
あれでは、人間は死はや犠牲について誤解してしまうに違いない。
インドの聖者たちもキリストは地上で最も優れたヨギだと言っているのに。
どうやら、その辺に、人間の意識の進化と
それを隔てるものの秘密が隠されているように思う。
それを解き明かそうとしている人もいるみたいだけど
やっぱりとても危険で重大なことみたいだ。

オーラ

神の使者を読まれた方にしかわからないネタですが
私が最近金色のアミアミオーラが見えるという話などをだんなさんにしたところ
だんなさんが私に
「本当は俺に内緒でアーテンとパーサにも会ってるんじゃないの?!」
と、わり真剣に私に言ってきました。
私が
「会ってないよ、会ってたら言うよ」
と言うと
「いいや!ゲイリーだって奥さんに言わなかったでしょ、そんで離婚したじゃん!」
と彼。
それで、私は
「そうだね、そんなこと言ってるなら、もっと瞑想しなよ!」
と、うちの夫婦の会話はこんな感じ。
最近のアミアミはというと
朝目が覚めるとまず天井に見えます。
昨日はだんなさんにハリとレイキをしてもらおうと始めた瞬間から、
自己ヒーリングや瞑想時はもちろん、という感じで現れます。
前にも言ったけど
あまりにはっきりくっきりと見えるので
やっぱり本当は目の病気じゃないかしら、と
ちょっとだけ疑っています。
でも目の錯覚ではないんですよね。
それくらいはっきりと見えることは確かです。
先日は自己ヒーリング&瞑想でマスターを召喚し
その時なんとなく目を開けると
いっそうアミアミがくっきり見えて
ところどころ網目がとても詰まってぎっしりと楕円形の塊になっているのが見えて
いくつかあるその塊が私のからだのほうへぎゅーっと集まって来ました。
すると最近いつもそうなるように
足全体に圧がかかってぎゅーっと重たくなりました。
あら~、いつも重くなる時こんなことが起こってるからなのかな~と
妙に納得しました。
納得はしたけどもう少しいろいろと知りたいです。
バーバラ・ブレナンの本をずーっと前に読んで
古本屋さんに売っちゃったのをちょっと後悔しています。
今読んだらまたいろいろと繋がるんだろうにな。
Image811.jpg
だいぶ以前にご紹介した四葉のクローバーです。
奇跡なのか自然なのかわかりませんがいまだに元気です。
根っこがひげもじゃになりました。

うちなーらいふ

近所でアーサを採ってみました。
沖縄ではどこでも売られていて
人気のある食材です。
ビーチに行くとそれとそっくりな海草が流れてきたり浮いたりしています。
これ、アーサなの?とよく思っていたのですが
やっぱりそうみたいなので(多分そうだろうっていうてーげーな感じで)
初めて採ってきました。
一応ネットで調べてみて
大丈夫そうなのでアーサ汁にしました。
とーってもおいしかった。
それから行き当たりばったりで出会った海岸(後で調べたら大度米須海岸)の岩場で
ウェットスーツ姿ですもぐりしていたダンディに
だんなさんが話しかけていろいろ教えていただいて
その上収穫を半分くらいいただいてしまいました。
危険な貝とかくらげとか珊瑚とか、タコとか。
凄く参考になることを教えていただきました。
特にアンモナイトと呼ばれてる貝は
特効薬もなく刺されると死んでしまうそうです。
アンモナイトって、あの、アンモナイトではないですよね?
とにかく沖縄では地元の方は裸とか水着では海に入りません。
服を着て入ります。
そしてこの辺では食べられるウニはないよ、と教えていただいたのですが
まさにその直後、沖縄で食べられるのはこういうの、と教えていただいたウニと
出会ってしまいました。
ちなみに食べないウニはそこいらじゅうにいっぱいいます。
Image809.jpg
ボイルするといけるよといただいた貝と
でっかくてハンマーで割らないと食べられないよ、と言っていただいた貝、
手前右のがシラヒゲなんとかウニ。
それから近くの創造の森公園で二人で瞑想して帰ってきました。
うす曇りの天気でしたがやっぱりプラーナがすごくて
二人とも目がなかなか開かないくらいでした。
私は自分の足がきらっきらになっているのを見て
ちょっとあの、映画とかなんかで見たことのあるような
からだから光が…みたいになってて感動しました。
だんなさんは光のビームがどーっと出ちゃってるみたいだったそうです。
沖縄はやっぱり凄い。
いたるところにトリップの入り口があります。

徒然の回想

高校生の頃、進路を決める時に
自分は何者か、って問いませんでしたか?
だんなさんに言ったらそんな問いは微塵もしなかったと言ってましたが
私はかなり深刻に問いました。
それで、将来の準備のために必要な勉強は自分にとって何か考えた末、
哲学、神学、演劇のどれか、と答えを出しました。
本当は神学、というのに一番惹かれたんですが
大学の神学科に入るには条件があって
司祭になる人に限られていたようでした。
哲学に関してはその時既に
頭でっかちの哲学だと習うのやだな、とか考えていて
本当の真理というものを大学では教えているんだろうか、
などと考えていた記憶があります。
それ以前に当時はひどい鬱状態で
成績も急降下してしまい
見かねた担任の先生が玉川の演劇専攻の指定校推薦をすすめてくれて
おそらく面接で「この子はあぶない」と教授のどなたかのアンテナにひっかかったか
イエス・キリストの救済かその両方によって合格したのだと思います。
(貴重な指定校推薦枠いただいたのに中退してしまって本当にごめんなさい。)
中学までは私の走り去った後にお花が咲くようなステキな女の子だったはずなんですが(笑)
高校生のときは、あみんとあだ名されるほどの暗い子の代名詞になっていて
本当に死ねるものなら今すぐに死にたいと思っていました。
で、死ぬ度胸がなかったので死ぬのをあきらめたのが
これまで人生で唯一の私のあきらめかもしれません。
大学の合格通知を家の階段で開けてみたときの救われた気持ちは
今でもよく覚えています。
地上に生きる許可を与えられたような安堵と不思議な導きと言いましょうか。
2003年にNYに滞在した時
私はそれまでの人生の重荷がゼロになるような体験をしました。
私の心身には実際に重さがなく、恐れもありませんでした。
過去もなく未来もなく、まさしく今にいる、ということがわかりました。
私は5番街のセント・トーマス教会に入りました。
はす向かいにはカトリックの大聖堂、セント・パトリック教会があり
そちらの賑わいとは対称的にシックで閑散とした教会です。
私はただ祈りたかっただけなのでどこでもよかったのですが
席に座ると同時にどっと涙があふれて止まらなくなりました。
そして世に言う人生の走馬灯のような記憶の絵巻物が
早回しでめくられていきました。
最初は、苦しい人生だったけどNYに滞在できて
すばらしい体験が出来たことに感激してるのかな、と思っていましたが
その絵柄には一貫した関連性がありました。
それはそのときは気にも留めていなかったようで
後に運命の分かれ道になるような選択の場面の羅列でした。
大学の合格通知を開いたときの私もページにはありましたし
もっとたわいのないことや、人生のかなり苦しい生活や、
その中にも思わぬ宝をみつけることになった場面など…。
私が必死で切り抜けてきた人生の選択の場面を
紙芝居のように見せられたようなかたちです。
それは、私の人生は私の主観だけではなく
何か別の視点があったのだ、と私に実感させる体験でした。
そう思ったと言うより、そうだからこうなった、ということが
自然にわかる、というような感じです。
「全部見ていたし、ところどころではちゃんとひっぱったり押したりしたよ」
とその紙芝居は伝えてきました。
「ほらね、ここんところなんてそうでしょう、知らないだろうけど」
というような感じです。そう、謎解きでした、あれは。
それで私は1時間か、もっとかよくわかりませんが
相当危ない橋を一人渡りきったつもりが
ちゃんと命綱もついていたんだというような変な安堵とか
感謝というには率直すぎる機械みたいに泣き続けました。
魂は、すべては計画通りだと私に教えたのかもしれません。
なんにしてもあの時、私は今世をいったんゼロに出来たのだと
今振り返るとわかります。
最近になって、あれ、そういえば
哲学、神学、演劇、全部今も使ってるよ、と気づいて驚きました。
けれど今になって一番驚くことは
「平安というものがこんなにも楽しく面白いものなのか」ということです。
あの頃の自分が既に持っていたものは本当に多いのですが
平安のすばらしさ、創造性、という体験だけは
今の自分にしかわからないものです。

神と宇宙

神とひとつになるには
あらゆる肉体の感覚から自由にならなくてはならない
と、インドのマスターたちは教えています。
マインドの動き、と彼らが言うのは
感情や心の表面的な動き、潜在意識の浅い部分や思考のことを指していて
瞑想の基本はまずマインドを静めることにあります。
マインドを静める、と言われて、はい、とできればとてもいいのですが
まず私たちは、どれが何だかわからない、という問題があるんですね。
ヒプノをやっていて変性意識に入ることができても
感じたことを感じたと受け取りにくい人が結構います。
これはどういうことかというと
魂が肉体に宿ったときや
肉体としてお母さんのお腹から出てきた時
この3次元の肉体と地球って星はとても重たくて波動も荒くてすごく大変!と
ショックを受けます。
それで、こんな不快な状態は耐えられないからなるべく感じないように、と
感じる機能にブロックをつけます。
人間は生まれてから成長していく過程で対処しきれないことに直面すると
こうやってブロックを作ってなんとか自分が壊れないよう
生きていけるようにして進んでいきますが
おそらく一番最初につけるとしたらこれです。
それで大人になって今度は豊かな人生とか幸せとか楽しいとかときめきとか、
いろんなことを感じようとするのですが
なんか、感じないな、とか窮屈で閉じ込められてるな、とかいうふうになって
苦しくなってきます。
インナーチャイルド、ととてもかわいい名前でよばれているのは
実はこういったブロックによる弊害のことです。
こういったブロックの処し方にはみなさん癖があって
いくつかの防衛パターンのどれかを採用してます。
最初に感じないブロックをつけた人は
人生を生きる時、そんなに激しく揺れないので
わりと穏やかに人生を前向きに処しているように傍からは見えるかもしれませんが
それだけに、この世をすごく好きでもないし
どっちかというと義務的にがんばってちゃんとしているんですが
それにも疲れてしまったりします。
私のパターンは逆で、生まれながらにこの世を感じる気満々で
感情が激しく感受性の強いと言われるタイプで
それだけに感覚世界を真に受けやすく
どんどん傷を作り、そのトラウマからくる癖で
人生をネガティブに捉え、悲劇にはまってしまった、というタイプです。
最初は意気揚々だったので、躓くにつれ
こんなはずじゃなかったのに・・・!と悲嘆にくれる感じで
わかりやすいのですがはずみで死んじゃうかもしれない心配なタイプでした。
いずれにしても人間は多かれ少なかれ
トラウマ、ブロック、トラウマ、ブロック、
戦う、逃げる、戦う、逃げる、と
肉体の本能に支配されつつ生き延びていきます。
この世で生きてて調子がいい人は、もっと強く、もっと成功、もっとたくさん、と
今度は欲が出てくるのですが
それも自己防衛本能の延長上にあります。
たくさん得るほうが安心(快感)と思うからです。
でもその安心(快感)というのは
欠乏と比較した安心(快感)なので
安心(快感)を得るには欠乏が必要となり
これを獲得するには常に比較や奪い合いという世界に生きることが必須です。
二極性の世界ですね。
聖者やマスターは真の平安を得るには
二元性を越える(目覚める)ことだと教えています。
二元性を越えて一元であるものを彼らは
神と呼びます。
私も神をそれ、と思っています。
最初に戻ると、神とひとつになることとはそういうことです。
この一元なるものをスピリチュアルではワンネス、とか宇宙、とか呼んでいますが
私が好きな「この宇宙すらも神は創らなかった」という言葉の意味は
「この次元の宇宙は二元性の世界だから」です。
ワンネスと宇宙を混同すると
まるで二元性のごちゃ混ぜの延長上(宇宙の頂点)に神があるような勘違いが起こります。
あらゆるものの中に確かに神(一元なるもの)は偏在しますが
この大いなる自然ですら二元をあらわしており
それをマスターは「幻想」と教えます。
幻想とは、真実でないもの、ということです。
幻想から目覚めるにはこの世の見方や捉え方、自分のあり方を見直し改める必要があります。
私のセッションではそういうことをお伝えし
実際にそうなるためのワークを行っていきます。
すごく壮大で深遠だけど、結局幸せへの近道になるはずです。