心地いいということ

癒しは確かに心地のいいもの。
ですが、魂にとって心地いいのか、エゴにとって心地いいのか、で
それが本当に癒し(後戻りのない道)であるかどうか違ってくると思う。
超入門アカシックレコード
超入門アカシックレコードは、タイトルのわりに入門以上の内容だったのだが
その中で私にとってもっとも必要だった言葉は
「誰もが人を救いたいと思っているが相手にとってもっとも必要な言葉は実は
おしりを蹴っ飛ばされて目が覚めるような言葉だったりする。
だが自分が癒されていなければその大切な言葉を
(投影によって)相手に言うことはできない」だった。
高次元からのメッセージというものが世の中にはたくさんあるけれど
誰もが心地よく感じ、受け入れられやすいものは
それはそれでいいけれど
しばらくすると
それはもうわかった!でもその結果が今のこの現状なんだけど?
となってくるのだ。
もちろん学ぶべきことはいくらでもある。
だけどしばらくの間
なんかびっくりして目からうろこがばらばら落ちないと受け入れられないような
新たなパラダイムシフトに出会わないものかしら…と思っていたら出会ったのが
「神の使者」だった。
それは確かにすごく受け入れがたく
そして後に完璧なまでにすっきりと
すべてを解き明かしてくれた。
だからもう、捜し求める必要はない。
実際のところ、捜し求める必要なんてないし
この世でいくら探し回っても
絶対にみつかるものではなかったのだ。
そうなってみて、私は
否定、ということを怖れなくなった。
人はみな、肯定されたい。
でもそれはエゴが願っていること。
肯定される心地よさはエゴにとって好都合な心地よさだと思う。
だけど、いくら肯定されても
苦しんでいる心があるに変わりはない。
「そのままのあなたでいいんです」というのは
ある意味真実だけど
「ありのままのあなた」というものを人は知らない。
今のなんだかわからないあれをたっくさん身に着けてる自分に
そのままでいいんです、というには
本当のその人が丸見えに見える人の言葉でなければ意味がない。
そして間違いなくこの宇宙はこのままでは良くない。
すべては選択しなおされ修正される必要があると思う。
真実を。
エゴの心地よさの中で夢を見ている間は
平安にはならない。
魂の心地よさを、スピリットの知覚を
選択しなおすことなんだと思う。
それで私はできれば
ひとさまのおしりを蹴っ飛ばせるセラピストでありたいと切に願う。

癒しはあともどりのない道

癒し、からイメージするのは
緊張した日常から逸脱して
つかの間の平安に浸ること・・・
というのが一般的かもしれない。
なぐさめ、みたいな結構お手軽なイメージがある。
だけど癒しとはもっと明確なものだ。
癒しが起こると私たちは悪夢から覚め
幻想の壁は打ち砕かれ
もはやあともどりはできない。
・・・なあんていうとまたちょっとおっかない感じもするけど
実際にそういうものだと思う。
リラクゼーション、というのもまた
お手軽なイメージで使われることが多いから
深刻な悩みや苦しみを持っている人からみると
「そんなもので人生が変わるわけがない」と
受け取られがちだと思うけれど(私は、そうでした)
リラクセーションは奇跡を受け取るための準備のようなもの。
なぜなんでしょう。
私たちが本当に幸せであるには
私たち人間に創造された心というものを通して
世界を知覚しなおす必要があります。
私たちが合理的に考える思考、というものも
本能の仕組みである攻撃や逃げ、というものも
本来の感覚とは違うものです。
でも、たとえば幼少の頃、
この地球で居心地の良くない思いをして
周囲の刺激から身を守ろうとした結果
生き延びなければ、という本能の仕組みから
私たちは防御のための砦を心に張り巡らせます。
そして、オープンにして感じる、ということは
居心地が悪くて危険な恐ろしいもの、
という観念を身につけます。
そして大人になるにしたがって
ますますこの砦を強固にすることで
この生きにくい世の中を渡っていこうとします。
すると、心が感じる、という機能は固いブロックに囲われ
私たちの心が本来感じるべき一番大切な
愛というものをなかなか感じることができません。
私たち人間は
愛を感じない限りふしあわせで孤独です。
それでどこかに自分を幸せにしてくれる何かを探し求めます。
でも、
それは、外にはありません。
肉体の機能としてついている「本能」というスイッチが
いつのまにかあなたの主導権を握っています。
そして肉体を通しての知覚が自分自身だと自分に思い込ませます。
自分は自分を把握している、もう少しがんばれば
完全に自分を支配できコントロールできるのに、と
思っています。
そして、このままの自分でいてなんとか
他のものと同じように
愛、も手に入れる方法を探します。
仕事やお金や、愛、という感じに。
でも、愛だけはどういうわけか
その方法ではうまくいきません。
それは心にいっぱいくっつけているあれのせいです。
そして思考は「あれ」について分析を始めます。
そしていつか分析を達成すれば
自分は解放される、と信じようとします。
でも、それは、エゴのやり方です。
癒しは光をあてます。
そして文字通り目覚めさせます。
リラックスは
本来のあなたが目覚めるために
思考やエゴというパーソナリティに
少しお休みいただくためのものです。
ヒプノセラピーで
私は感じることが苦手です、とおっしゃる方がみえますが
本来の感じる心を取り戻すことが
セラピーの目的でもあります。
不快なものを感じないようにしていると
大切なものも感じられなくなってしまいます。
大切なものとはもちろん
愛のことです。

たとえ困難に見えても

人の心が作り出す恐れのブロックには
限界があるのだ。
愛は限りない。
というようなことを目の当たりに見せてくれる
奇跡のセッションが続いています。
癒すのは聖霊であって
私たちは互いに思い思いに
奇跡を体験する。
感謝につきます。
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昨日は祝福のようにあったかいお天気だったので
ビーチへお散歩して
日没までお日さまを眺めて過ごしました。
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うちに帰ってからも
ベランダに出てごはんを食べ
寝るまでいろんな話をして過ごしました。
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みなさんにもたくさんの奇跡がありますように!

クンダリーニレイキ

クンダリーニレイキを受けてくださった方々から
たくさんの嬉しい声をいただく。
なかなか言葉では伝えきれない内容なのだけど
実際受けてくださった方々もやはり
受ける前にいろいろと調べてみても
よくわからないし、不安な要素も多かったけど
「なめてました!こんなにすごいと思わなかった!」なんて
おっしゃってくださる方もいる。
本当に、いろいろなことが起こったりできるようになったりするんだけど
結局のところ何がすごいかというと
世界が変わってしまう、という言葉が当てはまると思う。
なんでも好きなものを好きなだけ引き寄せ
手に入れることのできる秘密を
みんな知りたいかもしれない。
私も子供のころ
「3つだけなんでも願いがかなうならなにを願う?」
という問いにときめきながら考えた答えは
「いつでも好きなときに願いがかなう自分になる」だった。
その魔法と引き換えに
あらゆるエゴの幻想を手放しましょう、と言われたらどうでしょう。
というか、実際は
手放すことで魔法は働くようになるのです。
レイキは
人間、という不完全な生き物に魔術を与えてくれるものではありません。
私たちが自分はどんな存在だったかということを思い出し
完全なる神の通り道として自分を使うとき
その完全な世界の住人になるということです。
その世界がどれだけ自由と解放と安らぎに満ちているのか
皆さんの声を聞いていると感じることができます。

赦し

*写真は我が家前の今日の夕日*
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私と私のだんなさんと私の妹とだんなさんの弟は
生命の贈り物
(私たちは神の使者も読んでいるのでこれを赦しの祈りと呼ぶ)
をしている。
それぞれがなんだかこれはいい、と思って各々がしているので
特に示し合わせたわけではない。
でもおかげでフィードバックも確認しあえるし
なにしろ世界への視野に共通項目があるので
なにかと話が早い。
普通なら込み入った話も
「投影だね」とか
「赦そうね」とかで終わってしまう。
で、その分いろんなことに時間を使える。
会話もあの人がどうこうとかなんとかじゃなく
それが自分の中のあれを投影してるってことでいいかな、とか(笑)
そんな具合。
だから出来事を修正したいときは
ただ自分が気づき赦すという
シンプルな方法を採用する。
毎日の夫婦の会話や
イタリアにいるだんなさんの弟や東京の私の妹と
赦しや気づきや宇宙や神について話したり
気づいたらみんなで赦しの祈りをやっていたりすると
奇跡が起こらないはずがないな、と思う。
というよりだんなさんとは
生活のほとんどすべてに奇跡を見ている。
だんなさんとしみじみと
もうこれ以上ほしいものってないよね、とか
言い合ったりする。
それはたぶん
過ぎ去るもの、と
そうでないもの、を
だいぶ明確に区別できるようになってきているからだと思う。
そういう生活になって
そうでない生活とどう違うかというと
「可能」というスペースが圧倒的に広がる、ということだ。
狭くて不自由で不可能な世界から
無限というスペースで生きることが可能だ。
私たち家族がなぜみんなして同時多発的に祈るのかというと
たぶんそんな「可能」のスペースを生きたいがためなのではないかと思う。

明らかにする

写真は今日の瀬長の夕日です。
光があるところに闇は存在できない。
だから闇は光を恐れる。
しかし光は闇を恐れることはない。
光あるところに闇の脅威は存在しないからだ。
私たちが無限の存在である所以は
私たちが光を選択できるところにある。
光を選択するということは
闇を拒否することだ。
人のエゴの行いを見ていると
それは無間地獄のように
果てしない泥沼のように見える。
どうにもならない泥沼は
私たちが闇を選択したときにだけ有効で
悪夢から目覚めることを選択した瞬間に消えうせる。
人生は選択の連続だ、という表現がある。
それは確かにそうだが
本当に重要な選択は
光か闇か。
光を選択するとそこには
自分をゆだね、導かれて生きるという
果てしない自由と至福があり
闇を選択すると
果てしない業の清算がある。
明らかにする、とは
己の内面に灯りを燈す作業である。
暴く、とも、攻撃、とも違う。
人との関係において真実を築き
互いを鏡として学ぶことは
明らかにすることと等しいのだが
エゴは暗闇に潜みたがる。
闇の中で互いを知覚してもそれにはなんの意味もない。
幻想と錯覚、誤解があるのみ。
光あれ。と今日も思う。

からだを手玉に取る

まだまだ、エゴの正体が世間では明らかになってはいない。
エゴについて学ぶことは多くの人にとって有意義だと思う。
エゴ、とかインナーチャイルドの問題というものが
「一部の」未熟な人の特性とか属性だとか思われていて
だれそれにはそれがある、みたいなことを言うのが
はやってきているみたいだ。
「ある人に、私にはインナーチャイルドがいるって言われました、
だから、癒しが必要だと思うんです」とおっしゃる方が時々みえる。
自分の問題は、インナーチャイルドの問題が大きいみたい、
ということまで認識なさっているだけですごいことだと思う。
だけど、一体どんな人が「あなたにはある」なんて言うんだろう。
うそではないけれど、ちょっと詐欺みたいな話だ。
私に言わせればそれは現在の地上の、
それに取り組み解消したり浄化、解放していない人のすべてに共通のものだ。
かつてそれに大きく影響されていた、もしくは
現在影響されている、このどちらかに多くの人は属する。
つまり世界の認識自体が大きくずれている。
あるいは私と世間はずれている。
仕方のないことだけど。
心の課題を突き詰めていけば必ず
私たちは何者なのか、というところに行き着く。
さらに行けば、私たちは肉体なのか、それ以外なのか、となる。
最初は肉体を含むそれ以上、みたいな捉え方が易しいけれど
どうもそれだと矛盾が生じてくることもわかってくる。
私たちがすべての次元の自分を大切しなければならないのは
宇宙のすべてを愛し尊敬する、という意味ではそうだけど
私たちに内在している(かに見える)エゴ、肉体保持のためのシステムは
崇拝されるべきものではない。
からだにはからだの言い分がある。
からだを手玉に取るには
その言い分にまずは騙されたふりをする。
するとそれは手の内を見せてくれる。
おさえつければそれはあなたに反発して暴れだし
主導権を主張し、あなたを乗っ取ろうとする。
インナーチャイルドがあなたの人生の現在の問題に関与しているというのは
このあたりの仕組みから来ている。
マインド・トレーニングという本をずっとお勧めしているのは
その仕組みと取り組み方の具体例が書いているからだ。
私たちは真実を知り生きたいと願う一方
からだの属性である恐れに半支配されていて
本当の知覚すらままならない状態なのだ。
潔く目覚めに向かって進もうとする一方で
後ずさりを続ける理由はそれである。
だから、遠回りに見えても
結局自分で痛い目をみたり
絶望しかけたり
転んだりするほうが
「後退するよりマシ!」ということで
結局光にぐんとつ近づくのも事実だ。
私は、もしあなたが自分の中にある勇気というものを使うなら
自分の中の魔物と戦うことを
すべてのまだ取り組んでいない人にお勧めしたい。
そして本当にそんなものが幻想なんだ、
本当の私はこれだったんだと心底思うまで
それを続けてほしいと思う。
正直な話。